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執筆者の写真これぽーと

京都国立近代美術館 : カメラを持つのは誰か?(南島興)

緊急事態宣言が各都市で発出されて、公立の美術館をはじめとして、軒並みこれぽーとがレビューすべき展覧会が一時休止となってしまいました。常設展やコレクション展は企画展の開催リズムに合わせつつも、いつでも安価で見ることができる展覧会として、美術館の公共性を支える重要な役割を担ってきたと思いますが、この宣言下ではそれも難しい状況にあります。しかし、これぽーとの週に1本のレビュー公開はこれまで通り続けていきたいです。

今回は、こうした状況の中でも展覧会を開催している美術館として、京都国立近代美術館に訪れました。5月23日、本日のことです。ピピロッティ・リストという先鋭的な現代アーティストの文字通り、煌びやかな企画展とともに、ホワイトキューブに展示された近代美術館に相応しいオーソドックスなコレクション展を短い時間ではありますが、観てきました。その速報という形で、帰りの新幹線のなかから執筆していきたい思います。


さて、1年に全5回に分けられて開催されているコレクション展の第1期にあたる本展は、西洋近代美術作品選として、マイヨールやルノワール、モディリアーニの描いた女性モデルの肖像画から始まります。伝統的な絵画に見られる理想美を描いたり、ありのままの姿を再現するのではなく、いわばモデルのその人らしさという内面に関わる要素を表現の対象とする彼らの態度は、19世紀後半に生まれた「近代絵画」の一つの傾向を表しています。つまり、表象すべき対象は神やイデアといった自己を超越した何かでも、自らの外に広がる自然でもなく、世界を世界たらしめている作家の側の認識システムに移り変わったということです。


本展では、京近美のコレクションの一部である太田喜二郎と大久保作次郎を中心とした「日本の外光派」、すなわちアカデミズムと印象派的な技術の折衷様式の作品群も展示されていましたが、彼らが影響を受けた印象派の向かう先は、世界はどのようなものとして、この私に現れているのか?という可視的な世界を支えている網膜システムの技術的な再現でした。ジョルジュ・スーラのような新印象派まで至るならば、その探求は目が持っている科学的なメカニズムの解明と結託した客観的な技術の樹立へと変身を遂げているのでした。


人間の中にある目は、精密で柔軟なカメラとして、明確な姿を見せ始めていく。しかしながら、問題はそのカメラをもっているのは誰か?ということです。カメラを止めるのは誰か?の問いの前に、そのカメラを撮り始めたのは誰か?と問わなければなりません。ここまで、コレクションを見てくると、自然にその存在に気づくことになります。白壁に並べられた西洋近代美術作品や日本の外光派の作品に描かれているのは、ほぼすべてが女性であることに。つまり、カメラをもち、撮り始めたのは男性なのです。


とすると、本展はいかにも保守的な展示方法を採用していると見えてしまうかもしれませんが、そうではありません。展示室の入り口から一番遠いところにある展示室Cは現代美術作品の部屋となっていますが、そこでは森村泰昌がシンディー・シャーマンに姿を扮したセルフポートレートのシリーズが展示され、それ以外にも草間彌生の男性性を象徴するファルスへのコンプレックスを具現化した《トラヴェリング・ライフ》や自らの体を大量の電球で覆った《電気服》のパフォーマンスから着想を得た田中敦子の《1978,B》等が展示されているからです。「体当たりの美術」と題された本展示室において、想定された体とは、きっと女性の体のことを指しているのでしょう。かつての男性作家がカメラをもっていたとすれば、この展示室ではそこで表象され、時に窮屈な役割を演じてきた女性作家、モデルからのリアクション、あるいは男性作家の反省とパロディが回顧されていると言えます。


回顧。それらは1990年代までに出現した女性表象をめぐるイメージを批判するいくつかの戦略的試みに位置付けられます。けれども、それは今日からすれば、やはり回顧の色を帯びています。


ピピロッティ・リスト。彼女がこのコロナ禍に仕掛けた驚きの展覧会について、その詳細をここで書くことはできませんが、ピピロッティが文字通りの色味とともに、新しく感じられるのは、カメラをもっているのは私=女性であることを、こうした形容が許されるのであれば、「のびのび」と言ってのけるからです。しかも、同時に私はあなたであるかもしれない、と前と後ろ、内と外をひっくり返したりします。西洋近代美術作品や外光派の絵画を前提に据えられていたカメラの持ち主は、いつのまにかひっくり返っているのです。


「目とは血の通ったカメラ」。ピピロッティはこう言います。その感覚は展覧会を見ると、次第に腑に落ちていきます。カメラの持ち主は私である、と強く確信した次の瞬間には大きな波に流されていくような解放の感覚が本展にはあるからです。血の通った生きた身体に埋め込まれたカメラは一つの波となって、われわれを飲み込むのです。本展に特徴的な寝そべって鑑賞できる「ベッド」は、まさに誰かの生きた眼球の中へと流れ込み、沈殿していく心地よさを演出しているでしょう。


一見して、権威的にも映りかねないコレクション展は、ピピロッティの生々しく生命力に溢れた展覧会の、その前に一体何が美術ではあったのか?その以前の出来事について知らせてくれます。美術館におけるコレクションとは、新しい新しさを発見するためにあるとするならば、本展は正しく遅れることで、ピピロッティの新しさを十分に伝える展覧会と言えるのかもしれません。

新幹線は新横浜に到着。

 

会場・会期

京都国立近代美術館「第1回コレクション」展

2021年3月23日から6月20日まで

 

・執筆者プロフィール

南島興

1994年生まれ。これぽーと主宰。美術手帖、アートコレクターズ、文春オンラインなどに寄稿。旅する批評誌「LOCUST」編集部。



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