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  • 執筆者の写真これぽーと

北海道立近代美術館:いつもではないものが、そこに(minami)

 日本の美術館の西洋美術コレクションといえば、時代としては19世紀後半、動向としては印象派とエコールドパリが多いという印象をもっている。ある時期の日本人コレクターの趣味やふたつの動向の歴史的、社会的評価の高さが合わさった結果なのだと思うけれど、それでも、見る側からすると、印象派やエコールドパリと言われるだけで、「あぁ、いつものやつね」となんとなしに目を滑らせてしまうことがある。モネ、ルノワール、藤田嗣治、モディリアーニ。こうした有名な作家の作品ほど、私たちはちゃんと見ていないのかもしれないし、美術館の側はそうした作品ほど展示をする際の工夫が必要なのかもしれない。「いつものだけど、いつものではない」と思わせるなにかが。


 北海道立近代美術館の主だった西洋美術コレクションはエコールドパリである。明るく細やかな印象派とは正反対の印象を抱かせるその作品群を見ると、いつも不思議な気持ちが湧いてくる。第一次世界大戦と二次大戦の起きる隙間の時間、すなわち1920-1930年代のわずかなあいだにパリに集まったエコールドパリ=異邦人美術家たちの作品は、どことなく陰鬱で腐敗の気配がするのに、いや、それゆえに強烈な純粋さや無垢さを感じさせるからだ。そのときにモデルになるのは、多くは女性であるが、彼女たちはかつてのヴィーナスのように理想的な美を備えた人物としては描かれていない。画家たちのミューズであっても、ヴィーナスではないのだ。そこには常に現実の力が重く伸し掛かってしまっている。


 どういうことかといえば、本展の第一章を見れば、よく分かってくる。作家・作品解説には、画家同士や画家とモデルの関係性に重きをおいた説明がなされている。たとえば、ジュル・パスキンの作家解説にはこうある。「画家クローグの妻リュシーと不倫関係になり、「アデュー・リュシー(さよならリュシー)の血文字を残し、1930年6月30日に自ら命を絶った。」パスキンのことはなんとなく知っていて、作品もいくつか実見したことがあったけれど、このような劇的な最期をむかえたことは知らなかった。そう思っていると、別の壁には画家クローグが妻リュシーではなく、愛人テレーズを描いた絵画がかかっている。なんと身勝手な男たちだ、と心の中で反射的につぶやきながら、同時に絵画が現実のただなかで描かれるものであることも思い出していた。かつて描かれたヴィーナスにも現実のモデルがいたのかもしれないと。


 それ以外にも、第一章では、「モディリアーニの友情」と題したシリーズ物のキャプションがあり、若くして亡くなったモディリアーニと本展で見られる作家キスリングや藤田嗣治との関係性やモディリアーニに影響を受けた作品について解説されている。ここでも、作品の影響ではなく、「友情」という、あくまでも具体的な人間関係を強調する表現が使われていることが重要だろう。言われてみれば、当たり前だけれど、すぐに忘れてしまうこと。つまり、芸術作品とは現実の力のなかにあるのだ。


 とはいっても、それは人間関係の話に、美術の話を矮小化することを意味していない。そもそも、異邦人がパリに一時的に集まった、大きな背景としてはそれまで人類が経験したことのなかったふたつの世界戦争という、あまりにも巨大な現実の存在を抜きにしては存在しえかったはずだ。だからこそ、エコールドパリという存在それ自体が、なにもかもが物質的なものとして粉砕されていく戦争の世紀の空白地帯で醸成された、狭いコミュニティにおけるひとつの現実であったと言える。すこし感傷的に本展の解説文を受け取るとすれば、そうした大きく具体的に作用する力の布置のなかに、一見して、小さな人間関係を位置付けることができるだろう。そして、作品たちはより一層生々しく輝きはじめる。


 「あぁ、いつものやつね」と目を滑らせることなどできない。それらは、ひとたび触れれば、血が垂れ落ちる、現実の体なのである。第二章ではエコールドパリの描いた風景画が紹介されているが、その奥に傷ついた体を救済するかのように深く瞼を閉じた祈りの絵が展示されている。よく知られたジョルジョ・ルオーの《聖なる顔》である。題材となっているのは救世主イエス・キリストの顔が差し出された布にそのまま写し取られたという「聖顔布」の逸話で、その布はキリストと直接の身体的接触をもつ物質として、病を安などの神聖なる効能を発揮したと言われている。それでは、本展において、救済されるべき傷ついた体はどこにあるのだろうか。答えは、明らかであるように思う。


 ここで、文章を終えるつもりだった。しかし、ひとつだけ、にわかに言葉にしがい体験について記しておきたい。いま述べたルオーの作品の手前には、二点の作品が並べられている。マリー・ローランサンの《三人の娘》と岡田謙三の《野外習作》である。そして、これらに続いて、ルオーの《聖なる顔》があるという順だ。これはとにかく異様であった。それ以上のことがここでは言えない。しかし、どう考えても、ここには別の時空間が出現してしまっている。「いつも」ではない、異なる何かが、そこにはあった。

 

会場・会期

2021年7月17日から9月1日まで

 

・執筆者プロフィール

minami

近現代美術の展覧会をよく見ます。最近は日記、手紙、童話などの書き物にも興味がでてきて、毎日ちょびちょびを書き進めています。また趣味で日本の総合格闘技を観戦するので、そろそろ自分も習いはじめたいなと思っています。

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