和歌山県立近代美術館は、和歌山県立美術館を前身として1970年に開館し昨年(2020年)で開館50周年を迎えた。今回はそれを記念し行われた「和歌山県立近代美術館 コレクションの50年」(2020年9月19日~12月20日)をレビューする。
そもそも、私が本館へ赴く契機となったのは、同時開催されていた企画展「もうひとつの日本美術史ー近現代版画の名作2020」を見に行くためであった。私自身が版画制作を趣味としているという理由もさることながら、版画をテーマとした展覧会はこの美術館ならではと言える。なぜなら、版画は本館コレクションの特色として欠かすことが出来ないからだ。版画コレクションは浜口陽三を初めとして吉田政次、田中恭一と県出身の版画家の研究、収集活動から拡がり形成されており、また、1985~1993年に行われた「和歌山版画ビエンナーレ」は国際的版画公募展としての地位を確立し、こちらも本館が版画に重きを置く一因となっている。今回、企画展について触れる機会はないが、名作揃いで宝箱の中にいる様な体験だったことは記しておきたい。
さて、展示の構成を見ると「序章 1963ー1970和歌山県立美術館」「1章1970ー1993和歌山県立近代美術館(旧館)」「2章 1994ー2020和歌山県立近代美術館(新館)」と章立てされ、1、2章ではそこからさらに節分けされていた。(*1)また、順路を同館の歴史になぞらえ、その都度収蔵されていった作品を組み分けし展示されている。今回は、当館コレクション数点と全体を通しての複眼的視点に焦点を当てよう。
栗田宏一の《土の時間/和歌山》と「和歌山版画ビエンナーレ」展の作品群は当館らしさを体現しているだろう。栗田の作品は、シャーレの中に入った14種類の土を横二列に並べたものである。それぞれ異なる和歌山県内の地域から採取した土のため、色や乾燥による割れの度合い、質感の違いがみられる。そこから土が経年変化するに至った膨大な時間・土がその瞬間も生きている時間・美術館で鑑賞する私たちの時間が視覚的な美しさと共に示されている。当たり前だが、和歌山の風土は和歌山にしかなく、本作は地域外の鑑賞者にとっては刹那的に、住民にとっては悠久の形に映るのかもしれない。
展示室「1-3 和歌山版画ビエンナーレ 世界への視点」では全5回(1985-1993)に渡り行われた公募展の大賞と優秀賞の数々が展示されている。日本での国際版画展では1957~79年まで開催された「東京国際版画ビエンナーレ」がまず挙げられるが、こちらは1回目を除き、地域ごとに推薦、選抜された招待制によるものであった。そのため、公募形式で(さらに地方で!)海外に誘致したビエンナーレとしては大変意義深いところがある。現代版画は広義に戦後以降の版画を指すが、雑誌『版画芸術』の編集長も務めた松山龍雄は60年代の版画を近代版画の延長、70年代の版画を現代美術の作品(概念芸術)、そして、80年代になると版画は近代版画の継承のように技法と表現の改革によって、日本独自の版画世界をつくりあげてきたと区別している(*2)
この区分に従えば、当館のビエンナーレは80年代からの円熟期に開催されたということが出来る。展示作品をいくつか取り上げてみよう。河内成幸の木版作品《’84 桂(響き) 》は木組みで垂直に組まれた桂が、理不尽に構成されたワイヤーロープの引力により分断される瞬間が表現されている。河内は桂(柱)を日本文化の象徴とし、ロープによる破壊を自然や宇宙に於ける創造の営みと結び付けている。(*3)伝統技術である木組みが無惨に軋み割れるさまは儚ささえ覚える。また、桂の側面に木目が摺りあがることによって、対象と版の材質的一致が見られ存在感を際立たせる。技法面では、凹版刷り技法の確立によって細かい線描やマチエールの摺りを可能にしていることがあげられる。(*4)
そのほかに見応えのある作品としてパトリシア・アンネ・ピアスの《APPROACHING RED》もあげたい。画面は、斜線に連なる物干し竿のような白いポールに赤いリボンと解れや破れのあるぼろ布が掛かっている抽象的なものであり、ポール同士の間にたゆむ赤いリボンの軽やかさと圧迫感や不穏さを感じさせる布の対比が印象的である。画面に刷られた布は、彫刻刀などの表現ではなく、本物の布を版に貼り合わせて刷っており転写に近いコラグラフの技法が用いられている。リボンやポールと布の関係性をみるに綿密に計算され、貼り合わせ版にしたのではないかと考えられる。
冒頭で述べた通り、私は版画を制作する側の人間でもある。それゆえに、版画の独自性についてはよく考える機会がある。その一つが本物と複製の関係についてである。当館のコレクションには、そうした問題を解きほぐすための糸口になりうる作品も豊富に揃っている。
例えば「2-1新館開館 広がるコレクション」での展示作品のいくつか、アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンシュタインのシルクスクリーン、シャンディ・シャーマンのセルフポートレート(または、広義にジョージ・シーガルの石膏彫刻やチャック・クロースのペーパーワークも含め)は、イメージや情報、現実にある諸々のコピー(複製)によって出来上がっている。それらの作品は、まさにコピーがオリジナルと区別されなくなった、オリジナルなきシミュラークル社会を消費する私たちの知覚にとっては心地よく感じられる。
かと思えば、その対極に「1-4戦後関西の美術 現代へのまなざし」で展示されている星野眞吾や元永定正、白髪一雄の作品からは、一回性や儀式性が感じられ、国家の歴史のような、誰もに共有された大きな物語を打ち壊す身振りが、皮肉にもその物語を延命させる役割に転じている。その点から、これらにはベンヤミンのいうオリジナルがもつアウラ(*5)や大きな物語の消費に立ち戻り鑑賞しようとする態度が要請されるように思う。
また、それではこの中間に位置するであろう複数性をもつ現代版画群は、どのようにオリジナルとコピーの問題に向き合っているだろうか。版画は浮世絵に見られるように複製技術として生まれたが、現代版画は複製のために制作されている訳ではなく、作品としてオリジナルをもっている。一方、ベンヤミンがオリジナルと結びつける一回性を持ち合わせているわけでもない。表現としてコピーとオリジナルの両方を有している現代版画からは、アウラ的な神聖さやシミュラークルとしての軽さを引き寄せつつ、突き放す独特の立ち位置を探っているように思える。私自身も明確な回答を準備できているわけではないが、その中央値を取るかのような鑑賞の在り方に版画芸術の魅力の一つがあるだろう。いずれにしても、当館の豊かなコレクション展示を通して、偏った価値での鑑賞体験に満足するのではなく、複眼的な立場での鑑賞が求められることに気づかされた。
今回は版画をメインに取り上げたが、もちろん鑑賞者にとって名品と思えるコレクションが版画のみとは限らず、見応えのある作品は他にも沢山ある。是非、これを機に行ったことある方も無い方も当館を訪れてほしい。そして、ここでしか観れない作品の数々と出会い、新たな鑑賞や発見の契機としてほしい。和歌山県立近代美術館が歩んだ50年への敬意と今後も続く当館へのささやかな応援の気持ちを込めて、レビューを締める。
注釈
*1 1970年に開館した和歌山県立近代美術館は和歌山県民文化会館1階に置かれ、1994年に現在の場所に新築移転された。なお建築設計は国立新美術館などの設計で有名な黒川紀章が行っている。
節分けは以下の通り。序章、1章「1-1 和歌山ゆかりの作家たち コレクションの礎」「1-2 版画 コレクションの力点」「1-3 和歌山版画ビエンナーレ展 世界への視点」、2章「2-1 新館開館 広がるコレクション」「2-2 和歌山ゆかりの作家と日本の近現代美術 コレクションの継承と展開」「2-3 そして和歌山へ つづくコレクション」
*2 松山(2017)202-207頁
*3 「版画芸術」第158号(2012年12月刊)46頁。なお、〈桂〉シリーズは1976年に制作が始まり、本作は第1回和歌山版画ビエンナーレ優秀賞作品
*4 吹田文明『誰でできるプロの技 現代木版画技法』安部出版、2005年、44頁。水性凹版刷り法は、一般の木版画(水性、凸版)と異なり、凹部分に絵具を詰め刷る方法
*5 多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』139-145頁。アウラとは、時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象。作品がオリジナルとして物質的に存在していることが歴史の証人となっている。
参考文献
松山龍雄『版画、「あいだ」の美術』阿部出版、2017年
東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社現代親書、2001年
寺口淳二 和歌山版画ビエンナーレ『関西現代版画史』美学出版、2007年 pp206ー217
図録『森のなかで』「森のなかで」展実行委員会、2007年
・執筆者
堀本宗徳
奈良教育大学(略称:奈教)。専門は版画 美学と美術教育を勉強中です。
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