エスカレーターを降りて、左手にごろんと設置された大きな灰色の頭部に引き寄せられてしまった。右頬を床に傾け、ところどころ未完成な、あるいは崩壊しつつあった痕跡をとどめた顔で、一見すると石膏像を作る前の粘土で出来たモデルのような艶めかしさがある。古代の巨像に対面したかのような神聖性といまここにあることの現前性がともに私たちの前に差し出されている。
言うまでもなく、この作品は現代美術作家マーク・マンダースの手によるものであり、かつ作品の素材はブロンズで、その上にあえて粘土色に見えるような塗装が施されている。2021年に東京都現代美術館で開催されたふたつの展覧会をみた私たちは、この神聖性と現前性はマンダースによって意図的に準備された仕掛けであると理解できるだろう。「マーク・マンダースの不在」展では、コロナ禍における作家の不在という好機をあたかも偶然に獲得したかのように振舞うことで、その仕掛けが作為的なものであるとそれとなく示し、つづく「保管と展示」展では未来の収蔵庫に眠る、すなわち歴史に記述されうるものとして自身の作品たちを提示した(過去記事を参照:河野咲子「収蔵庫を上演する」)。ここにあるのは、作家という主体の不在を装うことで、美術館というかつて神殿と呼ばれた歴史の場所に、しかしいまここの作家が自らを位置付けようとする、物言わぬマンダースの強烈なエゴイズムである。神聖性と現前性のまえにして、観る者は法悦に浸っている場合ではない、これがふたつの展覧会を通じて得られたマンダース作品への私たちの構え方である。
問題はそうした作品たちが、現実に美術館に収蔵され、そして収蔵品展に展示されている、この状況である。もちろん以前より収蔵品展で展示される機会はあり、私たちはコレクション展を通り過ぎるたびに何度も目にしていたはずだ。けれど2021年の企画展以降には、私たちはその作品を前にして足を止め、じっと考えなければならない。収蔵品展にマンダース作品が展示されていることの意味について。「保管と展示」展の場合には、かろうじてしかし決定的に重要なことだが、そのタイトルづけのみによってマンダースの準備した虚構的な空間に私たちは至ることができた。ただし、いまや収蔵品を装っていた作品は、本当に収蔵品らしく収蔵品として展示されている。実に収蔵品なのだ。この頭部はすっかり虚構性を忘れて、まるでその場所こそ美術館の歴史が始まって以降、常に私の場所であったかのような佇まいで、私たちには無関心を装っている。
マンダースは、この作品に《乾いた土の頭部》と名を与えている。そしていつも通り素材・技法にはブロンズ、塗装とあった(と思う)。私たちはこのタイトルと技法・素材の間に生じた乖離からマンダースが東京で見せた/見せなかった何重もの虚構性の残響を読み取ることができるだろうか。難しいかもしれない。研ぎ澄まされたいくつかのノイズが届かなくなった時、マンダースの作品は死せる物として美術館の収蔵庫に眠ることになるだろう。いくつもの虚構性をうちに隠しながら。数百年、あるいは数千年。
会場・会期
国立国際美術館 コレクション1遠い場所/近い場所
2022年6月25日から8月7日まで
執筆者プロフィール
南島興
1994年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了(西洋美術史)。これぽーと主宰。美術手帖、アートコレクターズ、文春オンラインなどに寄稿。旅する批評誌「LOCUST」編集部。
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