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執筆者の写真これぽーと

小杉放菴記念日光美術館「風景を見る眼—国立公園絵画展—」:景勝と継承(つちやじぇりこ)

1 ハロー


 4月16日、その日は奇しくも放菴忌でした。高速を日光方面へ向けて走っていると、代搔きされて水の張った田んぼがいくつか空を写しています。風が走り表面をなぞると細かな波紋がついていきます。一面ごとに水の張り具合、土の均され具合が違い、わたしはこの時期の田園風景をいっとうおもしろく思います。かつては牛や馬に引かせていたのでしょうが、今はトラクターがうなりながらハローを引っ張っていて、底からかき混ぜられた泥が平らな板に引きのばされていきます。


 あれが泥のような粘度の絵の具なら。そんなふうなことを考えていると強い横風に煽られ、日なたと木影が交互に過ぎていきます。中央分離帯に植えられた生垣のやけにくっきりとしたグリーン越しに、まだらに赤くなった山桜と萌え動きだした葉っぱの色がぼやぼや見えます。山全体もまだらです。春です。



 昼過ぎに着くと日光周辺は晴れており、道沿いにはマスクをした観光客がぽつぽつ歩いています。


 小杉放菴記念日光美術館は栃木県日光市出身の小杉放菴(1881-1964)が学んだ小学校跡地に1997年に開館しました。日光国立公園内にあり、今回とりあげるコレクション展「風景を見る眼—国立公園絵画展—」の作品が所蔵されたいきさつにもこの立地と放菴の縁がかかわっています。入り口の前はまだ枝垂桜が散らずに咲いており、神橋の赤い欄干がとおくに見えます。

春の陽ざしが建物のオレンジの壁をあたたかく照らし、心地よさに目を細めながら小路を裏手の川のほうへ進むと、うしろで羽ばたきの音がしました。振り返ると、りっぱな雄の雉と目が合います。互いに驚いて飛びのきます。ここは彼の縄張りだったのでしょうか。ケンケーン。春です。


2 「国立公園絵画」


 それにしても、国立公園絵画とは耳慣れない言葉です。


「国立公園絵画」とは、国立公園の制度が整えられつつあった昭和初期、その普及の一環として、当時を代表する洋画家たちによって手がけられた風景画を指します。戦災などで多くの作品が失われたものの、戦後、次世代の洋画家たちが制作に参加。(略)そして、国立公園の制度づくりに日光が深く関わっていたこと、当館が国立公園内に位置する数少ない公立美術館であるという由縁から、財団法人国立公園協会よりこのコレクションが寄贈されるに至りました。(展示概要より)


 むかしからお遍路や名所をめぐる旅がありましたが、明治の終わりのころ、欧米に倣って日本にも自然の景勝地を保全する国立公園をつくる構想が立ちあがりました。当時は日本八景ブームや志賀重昴の『日本風景論』がベストセラーになっていた時代であり、保全すべき、みるべき風景を選ぶことは国内はもちろん国際観光推進のための一大事業でした。そのなかでも日光は、むかしから山岳信仰の聖地であり、江戸時代からは徳川家康を祀る東照宮に多くのひとびとが訪れる土地。明治へ時代が移ったあとの1870年にもイギリス人外交官・アーネストサトウらが次々と訪れ中禅寺湖畔には大使館別荘が今も残っています。

 そこで1911年に日光を国立公園にする請願書が議会に提出され、1927年に国立公園協会が設立。そして1931年に国立公園法が制定されます。深刻な不況をなんとかしたい当時の鉄道省や各省庁も制定を後押ししました。


 このとき、湯澤三千男という内務官僚が候補地を描いた風景画展の開催を提案します。世界初の国立公園(イエローストン国立公園)の普及にトーマス・モランらの作品が一役買っていたためです。そうして、実行委員会に当時の東京美術学校校長・正木直彦、石井柏亭、和田英作、小杉放菴らが参加することになりました。翌年1932年の三越での展示にむけ準備がすすめられ、ひとり1作品、キャンバスの大きさは25号、約1年で完成とし、旅費を出して各地に画家たちを送り出しました。



 今回の展示では各国立公園の見どころが示されたパネルとともに、描かれた場所ごとにゆるやかにゾーニングされています。展示室に入るとまず真っ先に眼に入ってくるのは洋画の冬の時代(*1)に外国人観光客向けに売られた日本の風景を描いた水彩画です。おみやげ絵と呼ばれるもので、放菴が師事した洋画家・五百城文哉のものもあります。再現に実直で禁欲的な印象を受けます。このころの作品を放菴は「売り絵の毒」と振り返っており、こうして春の訪れを待つほかなかった当時を想像するとすこし切なくなります。


 油彩の作品は、ほとんどが額装に厳めしい金の揃いのプレートがついており、右横書きのものも多いです。当時の国立公園協会がつけたものでしょうか。国の事情と事業に携わることを栄誉に思う洋画家もいれば、広告的な仕事に葛藤を抱える洋画家もいたのではないかと、それぞれの熱量を探ろうと眼が動きます。


猪熊弦一郎《塩原の渓流》(日光国立公園)1953年、油彩・キャンバス 小杉放菴記念日光美術館蔵 ©公益財団法人ミモカ美術振興財団


 おみやげ絵含め、まずは美術館のある日光国立公園を描いた作品が並びます。猪熊弦一郎の作品は、渓流といいながら眼に入るのは石、石、石です。猪熊が1950年にデザインした三越の包装紙のモチーフ(千葉の海岸の石)を思わせます。これは1953年の作品ですが、初期に制作された国立公園絵画の多くは保管庫の落雷や戦火などで失われたため、国立公園法制定20周年記念として1951年に再制作で各地に画家が赴いています。

 太めの筆でのびやかに迷いなく引かれているようにみえる線は、よくみると何度か色が検討された形跡があります。不透明なねずみ色と地の色のままの石、透けたマルーン色、左端に追いやられた波のエメラルドグリーン。周囲とのバランスによって色かたちが注意深く選択されているこの作品は、猪熊のその後の展開を予感させます。


児島善三郎《発哺よりの展望》(上信越高原国立公園)1953年、油彩・キャンバス小杉放菴記念日光美術館蔵


 日光のあとには尾瀬、十和田八幡平、富士箱根伊豆国立公園の作品がつづき、児島善三郎の描いた上信越高原の風景が眼にとまります。うすく溶かれた絵の具に鉛筆のアタリが透け、うつりゆく雲、稜線、前景の木が善三郎らしく記号化されています。善三郎はアトリエのあった国分寺や瀬戸、箱根など多くの風景を描いており、外でイーゼルを立てて制作するのが常だったようですが、この作品は滞在した10日間のうち2時間しか天候に恵まれず必死に描き上げたとあります。雑話として志賀高原のちかくに住んでいた友人にこのことを話したところ、ここはそこまで悪天候にならないと思う、温泉に入っていたのでは?とのことで、じっさいのところはわかりませんが、それにしても当時の装備で山に登り適度な場所を探して描くことは肉体的にも簡単なことではなかったろうと想像できます。

 展示会場を見渡すと、山岳風景を描いた作品が多く眼につきます。当初の国立公園の選定では「我が国の風景を代表するに足る自然の大風景地」として壮大な山岳景観がおもに選ばれていたそうです。日本の山岳信仰に、湯澤が参考にしたトーマス・モランの作品のような雄大で神秘的な風景を求める欧米の崇高の美学と山岳観光のモデルが作用したのが察せられます。アルピニズムのめばえ。国立公園絵画の制作者のひとりである吉田博も、過酷な高地の山岳風景を多く残しています。


 一方、川口軌外の《英虞湾(あごわん)》では島国らしいリアス式海岸の繊細な海岸線が描かれています。


川口軌外《英虞湾》(伊勢志摩国立公園)1953年、油彩・キャンバス小杉放菴記念日光美術館蔵


 パリでシャガールやレジェに学び、その影響を色濃く感じる作品を多く残している川口ですが、この作品は淡くあまやかな色彩です。たくさんの島が浮かぶ風景はスーパーマリオワールドのゲームマップ的でもあり、線のかすかな震えが波と大気と島の境界を揺らします。中央に一点だけちょんと置かれた白い絵の具が真珠のようです。

 伊勢志摩国立公園はその96%以上が私有地です。私有地と産業地とが混在する国土のちいさな日本では欧米のような公園専用の土地利用はむずかしいという壁にあたり、制度と選定基準は当初のものから時代によって変わってゆくことになります。


小杉放菴《厳島風景》(瀬戸内海国立公園)1933年、油彩・キャンバス小杉放菴記念日光美術館蔵


 小杉放菴が描いた瀬戸内海は、1934年に雲仙、霧島とともにはじめて指定された国立公園です。これは厳密には国立公園絵画として描かれたものではありませんが、気になった作品として取り上げたいと思います。放菴は五百城文哉のもとと不同舎で洋画を学んだのち、日露戦争では雑誌特派員として戦地のようすを絵画で伝え、フランス留学中に池大雅の《十便帖》の複製をみたことをきっかけに帰国後は水墨と淡彩による作品を描いています。コレクション展の前室で展示されている作品のなかにも、越前の紙漉き職人によってつくられた「麻紙」と呼ばれる紙に墨で描かれたものがいくつかあります。これらは麻の繊維にしたがって墨が染みていくのですが、キャンバスに描かれているはずの《厳島風景》も、この麻紙に描かれているような錯覚を起こします。繊維を再現する細い筆の運びと、樹の幹などはっきりした筆の運びが緻密にコントロールされています。蜃気楼のように眠たげな空気のなかで毛細血管めいた枝葉がざわざわと揺れ、実景というより名所絵のような概念的な風景にも思えます。旧派と新派、西洋と日本の間を揺れ動いた放菴の振動そのままのようです。


3 景勝と継承 過去-現在-未来の眼


 今回みた国立公園絵画のなかには、画題にのびやかに応答している作品もあれば、きまじめで硬直した印象を受ける作品もありました。ドローンの空撮や8Kのタイムラプス、VRの虚景、エモーショナルな映える画像と観光情報があふれる現代の人の眼にうつる近代の風景画というのは、一見、学校の写生大会の絵のように退屈なものかもしれません。しかし当時の鑑賞者にとっては未知の場所へつながる窓であったにちがいありませんし、洋画家たちにとっては「日本的風景なるものとはなにか」を国とともにつくった大きな物語でもあります。国立公園絵画は日本における風景、観光の価値と分かちがたく結びついています。


 国立公園はいまでは34の数が指定されていますが、利用者数は年々減少傾向にあるそうです。すこし、近代洋画の現状と被るものがあります。一方、ローカルな風景は一部で盛り上がりをみせているように思えます。あたらしい景勝。風景は生成され続けます。が、継承するひとがいなければ消えゆくだけです。


 帰りは西日が萌木に当たってすこし金色に光っています。西日に照らされて山の稜線がくっきり見えます。ブルーグレーの空と雲、ピンクがかったまん丸の月が追ってきます。


 わたしたちの風景をみる眼はどこへ向かうでしょうか。


 国立公園絵画は散逸や焼失を経て国立公園協会に集まり、2012年の協会解散にともなって小杉放菴記念日光美術館に寄贈され、いまこうしてみることができます。

 過去の、風景をみる眼をよくのぞきこむことで未来の風景へつながることがあるかもしれません。



*1:明治以降の急激な欧化政策への反動による国粋主義が起こり、伝統美術の振興が支持され、1883年には工部美術学校が廃校、1898年に創設された東京美術学校からは洋画が排除されていた。

 

・参考文献

『風景画でたどる洋画の歴史—国立公園絵画を中心に—』(展示解説リーフレット)清水友美、2022年

『美しき日本の風景 国立公園の絵画展』(過去展示図録)小杉放菴記念日光美術館、2013

『国立公園と風景の政治学』西田正憲編著、佐山浩・水谷知生・岡野隆宏、2021年

WEBサイト「巨匠たちが描いた国立公園——国立公園絵画コレクション」神田修二(最終アクセス日:2022年5月10日)

環境省 国立公園HP「日本の国立公園」(最終アクセス日:2022年5月10日)

 

会場・会期

小杉放菴記念日光美術館「風景を見る眼—国立公園絵画展—

2022年4月9日から7月3日まで

 

・執筆者プロフィール

つちやじぇりこ

1993年生まれ。福島県南に在住し「枯家」の絵を描いたり、写真を撮ったりしている。近代洋画と今和次郎周辺に興味を持っている。

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