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武蔵野市立吉祥寺美術館:版画の宇宙を知る、奥深くに(ムック)

 みんなの住みたい街、吉祥寺のあの繁華街の真ん中に美術館があることをどれぐらいの人がご存知だろうか。吉祥寺駅からのびるサンロードと東急百貨店のちょうどまんなか当たりに位置する、コピス吉祥寺というビルの7階にひっそりと佇んで、版画を中心に常設展示と企画展示を行う、武蔵野市立吉祥寺美術館である。ひとつ下の階は、子供向けの玩具売り場になっている分、余計にこの美術館の静けさが際立って感じられる。


 いま述べたように、当館の常設展示は、版画を中心に成り立っている。おそらく、絵画を見慣れている人からすると、版画はどうしても、どういう順番で、いま自分が見ている作品が出来上がっているのかが想像しづらいために、線や色彩が絵画に比べると素朴に見えたりしてしまう。本展では、そうしたもったいなさを回避するために、入ってすぐのところに順番に原版を作るところから、最後の刷り上がりまでの工程を紹介する展示があり、その後に続く作品の見え方をずっとよいものにしてくれていた。実際にその工程を知れば、版画がいかに精密な技術によって支えられているのかが分かる。


 工程の紹介があるといったけれど、それは版画一般の説明ではない。一つ目の常設展示の主役、浜口陽三が取り汲んだ版画技法、メゾチントの工程である。浜口は、メゾチントという黒から白への細やかな階調表現に特徴を持つ技法で知られる作家なのである。今回は、浜口が好んだモティーフであったという小動物や昆虫を描いた作品に焦点が当てられていた。


 暗い背景のなかに位置するてんとう虫や蝶々は、とても小い紙面に刷られているにもかかわらず、宇宙の中にぽかんと浮かぶ小惑星のような印象を与える。深みのある黒の中に隠れた本当に微々たるグラデーションがそうしたスケールの逆転を引き起こしているのかも知れない。あるいは、「孤独さ」にも近いニュアンスも感じられる。昆虫と周りの空間の間には、数センチの隔たりしかないのだけど、そこには無限の開きがあるように見えてくるのだ。


 そのまま展示室を奥まで進むと、片方の壁には3匹の蝶々が描かれた作品と、もう片方の壁には猫が画面いっぱいに描かれた作品が並べられている。さきほどまでは、小さい画面のなかにさらに小さく描かれた昆虫の作品ばかりが目に入ってきたけれど、猫の絵はそれとは逆の印象を与える。気持ち大きく感じられる紙面のなかに目一杯の大きさで、可愛らしい猫が描かれているからだ。このとき、画面はとても窮屈で小さなものに見えてくる。昆虫の場合は、自分たちの暮らす地球さえを飲み込む大きな宇宙にまで、その紙面の大きさは感じられたにもかかわらず、だ。 浜口の小さな生物へのまなざしはそれを取り巻く空間や画面の大きさとの関係、そして、何よりメゾチントからなる繊細な色調表現によって、版画の宇宙をひっそりと包み込んでいた。


 もう一つの展示室には、こちらは色彩の踊るイソップ物語を主題とした版画が並べられている。作者は萩原英雄で、彼は約20年を費やして、この《イソップ絵噺》シリーズを完成させたという。本展ではその全作にあたる51点を見ることができる。


 展示では、イソップ物語のひとつのお話につき、一枚の作品が寓意の意味とともに展示されているのだが、多くの作品では、浜口の描き出す猫の作品と似て、画面のなかをいっぱいにあるイメージか占めている。それぞれの寓意を、ここで辿り直すことはできないが、そこに登場する動物たちの動きや顔の表情はユーモラスにして、どこか悲哀に満ちている。美術の教科書にも載っていたシャガールの絵画に似ているかもしれない。それは山羊や鳥といった動物たちの出で立ちや人物の描き方などによっていると思うけれど、もっと直感的に画面全体雰から伝わってくる雰囲気が似ていると感じられたのだ。


 今回、萩原の版画の横に並べられたイソップ物語を読んでいると、ある出来事が起きたあとに、もう取り返しがつかなくなってしまって、ただ時間が過ぎるのを待つしかない。そうした終わりとそれを受け入れるための時間だけただ流れる、諦念と情念の入り混じった感情をもつことが多かった。シャガールの絵画には、愛する妻を失った悲しみが満ちていると言われている。登場する人物や情景が、その色彩も相まって、愉しげに見えたとしても、シャガールをシャガールたらしめる作品の根源には、もう失されてしまった何かへ執着めいたものがある。これが、萩原とシャガールを惹きつけた、ひとつの理由かもしれない。


 版画を思っている以上に奥が深い。物理的な奥深さと表現できる内容の奥深さ、二つの意味においてである。たしかに武蔵野市立吉祥寺美術館は、小規模かつ7階にあることもあって、足を運んだ事のある人は少ないかもしれない。しかし、これまで見てきたような常設展はもちろん時折開催される企画展も心惹かれるものが多い。何より、常設展示はいつでも落ち着いた雰囲気のなかで、作品を鑑賞できる貴重な美術館である。都会の喧噪から少しだけ離れて、版画の奥深い宇宙に浸ってみるのはいかかだろうか。


会場・会期

武蔵野市立吉祥寺美術館 浜口陽三記念室、萩原英雄記念室

2021年6月3日から10月3日まで

・執筆者プロフィール

ムック

某美大生で芸術学を学んでいます。アーティストになる夢をもちつつ、いまは文章の練習中です。関心領域としては、ドイツの世紀末美術と東洋の陶磁器になります。中高時代から趣味では、ピアノと登山を続けています。