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神奈川県立近代美術館鎌倉別館:移りゆく日々から出発すること(伊澤文彦)

 神奈川県立近代美術館鎌倉別館は、鎌倉駅から徒歩15分ほどの場所にある。観光客で賑わう小町通りから少し離れた、鶴岡八幡宮に面した緩やかな脇道の途中にひっそりと佇んでいる。観光地化された街並みが徐々に住宅街に変わり、非日常が日常に変化する風景の中から美術館が唐突に姿を表してくる。初代館長土方定一の下、日本で最初の近代美術館として1951年に開館し、これまで日本近代美術を中心に、14,000点以上の作品が所蔵されてきた。

 「日々を象(かたど)る」はコレクション展として企画されたもので、神奈川近美が誇る日本近現代の美術作家を中心に構成されている。企画概要には「絵画や素描、立体の作品を中心に、当館のコレクションから制作と(非)日常をめぐる幾つかの視点を立てて作品を選りすぐりました。見知った世界から引き出された、感性に響くイメージとの出逢いを展示室で体験してください。」とある。「日々を象る」というタイトルにも表されているように全体的に日常の光景や自然の風景に取材した作品が多く、作者の日常と仕事における息遣いを如実に感じ取れるような展覧会になっている。全体は6章構成で、それぞれ「1. アトリエとその周辺」、「2. フランスの日々、日本の日々:佐野繁次郎の線描画とともに」、「3. 日々をつつむ自然 — みえないものを描きだす力」「4. 歩く日々、佇む日々」「5. 虚(きょ)を型取る:岡崎和郎のオブジェ」「6. 制作する日々:新収蔵の渡辺豊重作品・資料を機に」である。今回は第3章まで順にレビューしていきたいと思う。

 

 まず「1.アトリエとその周辺」では、黒田清輝の《逗子五景》が真っ先に目に入ってくる。フランス留学から帰国した黒田が逗子に半年間ほど滞在した折に描かれたもので、小品5点が連作としてひとつの額に入れられて展示されている。5点全てが海辺や川辺、湖畔で描かれたものであり、黒田が学んだ印象派の影響を多大に読み取ることのできる絵画である。板の上に軽く載せられた油絵具とそれを扱う筆致は、そのまま波の盛り上がりとして、あるいは柔らかに天から降り注ぐ細やかな光の表現として形作られている。5点はいずれも異なる場所、異なる天候の中で描かれたものであり、朝もや、夕暮れ時、曇天など、様々な状況における光の表情の移り変わりの豊さを、ひとつの額の中で愉しむことができる作品になっている。


 こうした黒田の柔らかで軽やかな筆致とは対照的に、まるで何かを削り取るような硬い筆致の作品にも引きつけられた。アルベルト・ジャコメッティの《二つのバケツがあるアトリエ》と《瓶のあるアトリエ》である。ジャコメッティは本展で唯一の外国人作家で、神奈川近美では1950年代の作品を中心に44作品が所蔵されており、そのうちの2点が本展に出品されている。ジャコメッティは線描の上からまた更に線を重ね、線を消しつつ、またその上から線を重ねて描くような描き方をしているが、それは絵画というよりは彼の制作の中心にあった彫刻に近い作り方である。言い換えれば、一つのモチーフの形態を決めるのに何本も線を描き、描かれた線の中に更に別の空間ができ、背後の風景と重なり合うことで新しい形態が生まれる、というような形態の連鎖が画面内で起きているのだ。モチーフの輪郭を執拗に追い続けるジャコメッティの線は、アトリエの空気感やモチーフの質感といった情報から見るものを引き剥がし、モチーフを形作る線の連なりによって作られた新しい空間に鑑賞者を巻き込んでいく。光によって空間の見え方は徐々に変わるが、異なる形態の連なりを見出すことで全く新しい空間が見出されることもあるのだ。

 

 さて、「2. フランスの日々、日本の日々:佐野繁次郎の線描画とともに」に移ろう。ここでは、佐野繁次郎のドローイングを中心に、パリに留学してマティスに師事した佐野との関連で、藤田嗣治や、金山康喜、田淵安一など、留学後パリで積極的に作家活動を行ってきた作家の作品が展示されている。佐野のドローイングは37点も展示されていて見応えがあったが、本展との関連で言えば、《裏木戸》や《乾物屋》など、見過ごされてしまいそうな下町の一角を丁寧に描いているものに引きつけられた。佐野は大変に優秀な挿画家として知られ、手書きの文字や人物のアンバランスさが作品独自の魅力になっている。けれども、私は建物の間取りやモノの配置が正確に描かれている作品にこそ、佐野独自の観察眼の高さが現れていると思う。例えば、《裏木戸》では開いたドアから部屋の中が見え、そこには雑然とした生活感のある光景が広がっている。路地に転がるちりとり、干してある洗濯物、詰め込まれた酒瓶など、対面では見せない「裏」のモノ達がそこには描かれており、それらを通して、鑑賞者は下町の裏路地に暮らす人々の性格を読み解けるようになっているのだ。実際には、《乾物屋》も《裏木戸》と同様に人の姿は描かれていないにもかかわらず。《乾物屋》は、間取りはかなり正確なスケール感を保って描かれており、その中に商品がたくさん置かれている状態になっている。商品のディテールは描かれてはいないが、整然とした店構えに多くの商品が押し込められている様子は面白く、店主はかなり几帳面な人なのだろうと想像できる。50年代の作品だが、天井から吊るされた白熱電球や店先にある小上がりの空間などが描かれており、当時の風景としても趣深いものになっている。


 この吊るされた白熱電球は、金山康喜の《静物(コーヒーポットのある静物)》にも登場しており、当時の生活を象徴する家電の一つとして共通項を見出すことができるだろう。本作は、遠近感は狂っているものの、モティーフごとの質感はある程度描き分けられている。テーブルの上のグラスが持つ爽やかで抜けるような青と、椅子の座面に塗られた黄色の毒々しさがコーヒーポットの色のなかで混ざり込むことで、部屋とモチーフが色の操作によって統一されるような効果が生まれていた。モチーフに与えられた色が周囲の空間に伝搬し、その色がまたモチーフに混ざり込むような、色と空間の連関が幾重にも生じている作品として、とても見応えのあるものであった。

 

 「3. 日々をつつむ自然 — みえないものを描きだす力」に移ると、現代作家が取り上げられはじめて、そこには存命の作家も多い。本章では「自然の姿を作家がいかに描き出すかということ」に焦点をあてられている。そのなかでも会場入り口の真正面に位置し、一際存在感を放っているのが、李禹煥《With Winds》である。シリーズ化された本作は3m近いキャンバスに、黒の単色が上から下にサッと引かれている。そして、そこから少し離れた場所に、ベージュと黒が混ざり合った塊が様々な方向から重ねられていく。一見したところ、本章のテーマである「自然の姿」を見つけることができない。確かに、《With Winds》は、日本語訳をすれば「風とともに」であるが、その言葉と作品自体がどのように結びついているかも判然としない。


 もう一度、作品に目を向けてみよう。《With Winds》で興味深いのは、単色で塗られた塊とベージュで塗り重ねられた塊との対比、そしてその周囲にある余白である。これらの特徴は、分かりやすく「単純と複雑」、「純粋と不純」といった二項対立として本作を理解するのに役立ちそうだ。だが、私はそれは逆ではないかと思う。


「切り分けられないこと」こそが、主題なのではないか。というのも、黒はキャンバスの白との対比によって際立ち、純粋なものとしてそこにあるように見えるが、その隣にある色の塊は中間色であるベージュであり、そこに黒が混ざり込みながら描線が重なり合って形作られているからだ。形は色同士が混じり込み塗り重ねられる中で複雑さを増していく。色は混色を繰り返せば繰り返すほど黒に近づいていくことはよく知られる通りである。つまり、黒は画面上において純粋であると同時に複雑な存在でもあるのだ。本作では黒という色を媒介として、色や形態の持つ単純さと複雑さが「切り分けられないこと」として共存している。さらには、刷毛で絵具が伸ばされた際に段階的に生まれる色のグラデーションが、色そのものを「切り分けられないもの」として存在させている。色のグラデーションは、李の身体的身振りによって生み出されたキャンバス上を行き来する「揺らぎ」の現れでもあり、それが形態と結びついている。キャンバス上を行き来する、色と形の「揺らぎ」は、偶然性の中に揺れ動きながら立ち現れる自然の姿によく似ている。Winds=風の持つ「揺らぎ」は、物事を予測不可能な方向へしばしば結びつける。だとすれば、移りゆく日々から予測し得ない「揺らぎ」を見つけ続けることが、「日々を象(かたど)る」行為に他ならないのかもしれない。

 

 以上、3章までをレビューしてきた。全体的に見応えのある作品が多く、各作家の「日々」を感じ取ることができる展示になっていたと思う。5章と6章では彫刻作品が中心に扱われ、6章では鎌倉別館に設置されている野外彫刻のマケット等も展示されている。野外彫刻作品と美術館の関係性にも触れつつ、次回は第4章以降をレビューしていきたい。(続く)


神奈川県立近代美術館鎌倉別館「日々を象(かたど)る」

会期:2020年6月9日から7月5日まで

・執筆者

伊澤文彦

横浜国立大学大学院都市イノベーション学府建築都市文化専攻博士前期課程2年在籍。

戦後日本美術研究。「実験工房」等、領域横断的な表現活動を行っていたグループに関心があり、研究を行っている。現在は、作曲家で造形作家の佐藤慶次郎について研究中。美術館に行くことと、猫と戯れることがライフワーク。