• これぽーと

第1回:常設を思弁する。(南島興)

 常設展はつまらない。なぜだろう。常設という名称が良くないのかもしれない。編集ではなく、エディトリアル、展示構成ではなく、キュレトリアル。そういう片仮名語への言い換えだけで、常設展に対するイメージは一変するのかもしれない。けれど、だいたい似たような作品を似たような順番に並べて、キャプションや作品解説は同じものの使いまわし、という実態がそれで変わることはないだろう。いつも同じものの繰り返しに思える展覧会は、それゆえにいつも見る気がおきないものになる。今しかすることができないという一回性によって、「何かをしたい」という気持ちが湧いてくるものだからだ。一回性と反復性。企画展と常設展の大きな違いはここにある(実際には互いに入れ子構造になっていることもある)。そして、きっと多くの人は一回性の方を好んでいる。


 ぼくはどうか、といえば、反復性の方を好んでいる節がある。常設展はつまらない、と思ったときの、そのつまらなさを生み出す、繰り返しの構造に、ぼくは惹かれている。いや、つまらなさを好むなんて言うのは、逆張りもいいところで、これぽーとをやっているから、常設展を好む陣営をあえて張っているのでしょうと、どこか内心を思われているかもしれない。しかし、ぼくが反復性のつまらなさを好む理由は、あえての逆張りでも、変わらないことを善とする生活保守の立場ゆえでもない。反復性のなかには、ある変革への兆しが潜んでいると考えているからだ。そのことを、ぼくはイタリアのある画家から学んだ。


 常設展はつまらない。もしそう思う人がいたら、この画家のこともつまらないと思うに違いない。20世紀イタリアを代表する画家、ジョルジョ・モランディのことである。1890年に生まれて、1963年に亡くなった彼はパリやニューヨークでは前衛や抽象が時代の覇権を握っていた頃に、自室のテーブルの上に並べられた瓶や壺の種類や位置を少しずつずらしながら、類似した構図の静物画を描き続けた。こういってよければ、同時代の潮流から外れて特殊な存在感を放った画家ではあるが、その反復にささげた人生には濃密な退屈さが伴っている。しかし、その退屈さは、変化を知るためには必要不可欠な条件であったのだ。言われてみれば、当たり前の話である。前衛やアヴァンギャルドと呼ばれる表現は、旧世代の前提とした歴史観やモデルを変革することを試みたものだけれど、そもそも何かが変わったことを知るために、その何か以外の条件は揃っていなければならない。もし、すべてが変わってしまったら、そのとき人はその変化をはかるための術をすべて失っている。前衛の旗を立てた芸術家たちは、そういう変化を推し量りえない変革までを求めたのかもしれないけれど、分かりやすくモランディはその逆を向いていた。


 似たモティーフで、似た構図で、絵画を描き続ける。そうすると、ほかのどの画家よりも、はるかに自分を繰り返してしまう可能性がある。同時代を生きたピカソがとどめなく作風を変えていったのとは、まったくもって対照的な困難さをモランディは抱えていたのだ。繰り返さないようにするためにこそ、何がひとつ前の作品といまの作品と、これから描こうとしている作品で変わるのか。その最小の変化にモランディは鋭敏に気がつく必要があった。でなければ、容易に自己を繰り返し、そして愛でる自己撞着へと陥ってしまうからだ。モランディの出身国と生没年を見ればあきらかだが、彼はファシズム政権下を生きた芸術家でもある。反復性による変化への反応は、時代状況のなかで解釈するならば、ある政治的な態度にも思えてくるだろう。もっとも小さな変化に気付けない者は、自分が大きな力によって変えらえれてしまっていることにすら気付くことができない、と。


 こうした人生論的にも思える画家紹介は、あまりに行き過ぎないように控えるべきだろう。けれど、ぼくがここで言いたいのは、要するにひとは繰り返しの構造がなければ、ある変化に気付くことができない、ということだ。たしかに、常設展は企画展に比べて、いくら展示替えがあるにしても、多くの場合は繰り返しのパターンになりがちである。澱んだ湖水のように停滞しているように見える。しかし、そうした限りなく静止(スティル)に近い状態のなかにこそ、モランディがそうであったように、最小の変化を、あるいはその兆しを誰よりも早く発見できるのではないか。ぼくはそうした変化を準備する反復の場として、常設展は開かれていると考えているのだ。


 これは、美術評論家のクレア・ビショップが『ラディカル・ミュゼオロジー』という近刊のなかで取り上げたコレクション展の可能性についての議論にも通底する話なのだけれど、その点については、次回以降に触れるようと思っている。ひとまず、第1回では、本連載のひとつめのキーワードが「反復」であることを提示した。つづく第2回では、具体的な展覧会へとぐっとフォーカスを当てて、北海道立近代美術館のコレクション展で並べて展示されていた3枚の絵画、マリー・ローランサン《三人の娘》、岡田謙三《野外習作》、ジョルジュ・ルオー《聖なる顔》、この三作の展示の分析から話を始めることにする。(第2回へ続く)

・執筆者プロフィール

南島興(みなみしまこう)

横浜美術館(とても新人)学芸員。1994年生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了(西洋美術史)。これぽーと主宰者。旅する批評誌「LOCUST」編集部。文春オンライン、美術手帖、アートコレクターズほかに寄稿。