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第12回:レビューの使い方会議(南島興)

これぽーとを主宰している南島です。今週は、レビューの使い方会議の第12回目です。以下、説明に続いて、本文になります。


 突然ですが、前から少し疑問だったことがあります。毎月のように展覧会が開かれて、それに対するレビューがさまざまなメディアで公開されている。けれど、展覧会が終わったあとのレビューや、一度読まれた後のレビューはどこへ行ってしまうのか。書籍であれば、何度も読み直されることや本棚にしまっておいて、その時々で読み返されるということがありますが、展覧会のレビューで、それもネット公開のものは、なかなかそうはなりにくいと思います。どうしても一回の使い切り感が否めません。これはもったいないことだなと前から思っていました。本来、レビューは展覧会が終わったあとやその展覧会の存在すらも忘れられたあとにこそ、それがどんな展覧会であったのかを記録した資料として重要な意味を帯びてくるはずだからです。


 こういった問題意識からこれぽーとでは断続的に、南島がこれまで公開されたレビューを僕なりに紹介していくことにしました。題して「レビューの使い方会議」。試しにではありますが、この場でレビューの「使い方」をいろいろ見つけ出していきます。レビューを書いていただいたみなさんのためにも、読んでいただける方々のためにも、主宰者である自分には、それを発見していく責務があると思っています。


 第12回目となる今回は、2020年11月に公開された芦屋市立美術博物館と村内美術館のレビュー記事をご紹介いたします。

 

芦屋市立美術博物館:入り乱れる芦屋の美術史を直視する(松村大地)

本展では作品のキャプションに制作時の作家の年齢が記載されていました。下世話な話、小説家を志す人なら、あの小説家は何歳のときになんの小説を書いていたのだろうか。批評家なら、あの評論賞を取ったとき、あの人は何歳だったのだろうか。美術史の研究者なら、あの先生は博士論文を書き上げ、出版したのは何歳だったのだろうか。誰もが一度は、いまの自分の活動歴を振り返りながら、比較して、目標を建て直したりしたことはあるでしょう。年齢とは、概ね、その作家の活動歴のなかのどの地点に当の作品があるのかを知る手段であり、展覧会の鑑賞者にとっては、自分と引き付けて考えることができる目安となります。何より、作家が故人の場合、それぞれの年齢のときの作品を没年=終わりから逆算して、全体の活動歴のなかに首尾よく位置付けることが、基本的な美術史家の仕事であり、美術史をつかさどる美術館での展覧会作りの前提にあるものです。そのために年齢は分かりやすく役に立つ。だが、ここには罠があると思います。終わりから逆算しようとした時点で、あらゆる時期の個別の作品群はひとつの終着点へと向かう因果関係の論理のなかに包含されてしまうことになるからです。それがどんな形であれ、終わりへの必然的な流れ=歴史の形成に向かってしまいます。年齢はそうした理解を助ける役割を果たすことになります。しかし、終わりは偶然であって、必然ではありません。本来、作品の制作には無数の亀裂が走っているはずなのです。ルーチョ・フォンタナがアルゼンチンに移住した1921年まで時計の針を戻したら、同じように「空間主義」が唱えられ、同じような晩年を迎えたかといえば、決してそうではないでしょう。りんごがいつでもどこでも落下するのとは話が違います。もちろん、この作家の人生の一回性について記述することも美術史の仕事ではあります。ただ、他方には、こうではなかったかもしれない、という人生の複数性に開かれた美術史/美術批評の在り方もなければなりません。それは偉大な芸術家であればあるほど必要とされると思います。でなければ、作家は必然のなかに幽閉されてしまう。偶然性のほうへと作家を放り出すために、年齢は必要なのだ。ありえたかもしれない芸術家の姿を想像するために。その指標として、年齢が提示されているのであれば、本展のキャプションはとても有意義なものに見えてきます。

(ごめんなさい。ぜんぜんレビューの紹介になっていませんね。)

 

村内美術館:~お部屋の中に飾るもの全てを~村内コレクション(塚本健太)

美術館には主観がない。それは多くの美術館では数十年に渡って、複数人が収集活動を続けてきた結果として、現在のコレクションがあるからです。ひとつひとつの判断には少なからず、主観が入り込んでいるのでしょうが、建前として、その作品や資料が美術や文化の歴史を保存するために重要であるからという、客観的な歴史のほうに紐づく形で説明されているはずです。よく学芸員は黒子であることが問題視されますが、その根源的な理由を挙げるとすれば、いま生きている人間と歴史との関係性から、ある程度必然的に主観性のない黒子的な役割を担わざるをえない側面があるのかもしれないと考えられます。翻って、村内美術館には主観があります。なぜなら、これは家具会社の創業者の個人コレクションを展示する美術館だからです。バルビゾン派の研究から印象派、また世界的な有名デザイナーによる椅子や家具、高級車まで。ある個人の趣味に強く引き寄せられた美術館は、私たちには客観的だと信じられている歴史よりも、ある個人の人生とまなざしへの関心を湧き上がらせます。ただし、国立美術館の常設展を見れば分かる通り、かつての個人コレクションがパブリックコレクションを形成していることも事実です。主観のない美術館といったほとんどの美術館でも同じようにコレクションが形成されているはずです。主観と客観は相互に補完し合う関係性にあるのです。あるいは、相互にパラフレーズが可能なもの同士なのです。村内美術館は、美術館における主観と客観、プライベートコレクションとパブリックコレクションの関係性について、考えてみるとひとつの例になるのではないでしょうか。

 

・執筆者プロフィール

南島興

1994年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了(西洋美術史)。これぽーと主宰。美術手帖、アートコレクターズ、文春オンラインなどに寄稿。旅する批評誌「LOCUST」編集部。