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第2回:レビューの使い方会議(仮)(南島興)

これぽーとを主宰している南島です。


 突然ですが、前から少し疑問だったことがあります。毎月のように展覧会が開かれて、それに対するレビューがさまざまなメディアで公開されている。けれど、展覧会が終わったあとのレビューや、一度読まれた後のレビューはどこへと行ってしまうのか。書籍であれば、何度も読み直されることや本棚にしまっておいて、その時々で読み返されるということがありますが、展覧会のレビューで、それもネット公開のものは、なかなかそうはなりにくいと思います。どうしても一回の使い切り感が否めません。

 これはもったいないことだなと前から思っていました。本来、レビューは展覧会が終わったあとやその展覧会の存在すらも忘れられたあとにこそ、それがどんな展覧会であったのかを記録した資料として重要な意味を帯びてくるはずだからです。

 こういった問題意識から、これぽーとでは断続的に、南島がこれまで公開されたレビューを僕なりに紹介していくことにしました。題して「レビューの使い方会議(仮)」。試しにではありますが、この場でレビューの「使い方」をいろいろ見つけ出していきます。レビューを書いていただいたみなさんのためにも、読んでいただける方々のためにも、主宰者である自分には、それを発見していく責務があると思っています。


 第2回目となる今回は、2020年8月末に公開された国立国際美術館と国立西洋美術のレビュー記事をご紹介いたします。

国立国際美術館:線描はいかなる機能を有しているのか?(松村大地)

 「線描」という人類が古来より慣れ親しんできた表現方法をテーマに掲げた本展は、線描といってイメージされる絵画やドローイング作品に留まらない、様々な作品が展示されていました。このレビューの中心にあるのは、制作と時間をめぐる問題です。一般的に完成作品は、いまその作品を見ている時間=現在に私たちの注意を集中させます。あるいは、いまという時間の中で、時間を凝固させ、凍り付かせるといってもいいですね。対して、生々しい作者の手の動きが記録される線描は、否応なくそれが描かれた過去へと私たちの視点を誘うことになります。松村さんはそうした線描の特徴に着目して、キキ・スミスの彫刻とデッサン、ヴォルスの銅版画についてはじめに分析しています。冒頭に展示されたキキ・スミスの作品の時点で、すでに過去の中に姿を現す、もう一つの時制、すなわち「未来」が仄めかされていたわけですが、クリストの大規模なプロジェクトのためのスケッチ作品の展示をきっかけに、さらに作品の始まりと向かう先が出会う場として、それは強調されていくことになります。松村さんはクリストの不確定性をもつスケッチに、プロジェクトの過去と未来を仮説的に構築するという意味で、「シミュレーション」という名前を与えています。シミュレーションはその意味どおり、一つのシミュレーションであって、完成品ではありません。それゆえに、作者の認識や着想を一時的に仮固定するものにすぎず、次の瞬間には別の姿に変わっていきます。この一瞬の間にクリストが公共空間に出現させる新奇な風景は、かつてのシュルレアリスムの発明した「デベイズマン」という手法を思い起こさせます。異質なもの同士の出会いは、線描のうえでは、過去の街の風景と未知の風景の衝突と時に訪れる調和と言い換えられるのです。こうした、デベイズマン的手法の代表例に挙げられる作品が、ロートレアモンの「ミシンと蝙蝠傘との解剖台の上での偶然の出会い」という作品です。解剖台に置かれたミシンと蝙蝠傘が撮影されているだけの作品ですが、ここで着目すべきは、その出会いを可能にしている条件とは何か?ということでしょう。それは、こちらも文字通り、「水平な」解剖「台」のことを指しています。偶然にも、展示会場に準備されていた関連資料や図録を見るための白いテーブル=台は、感染症対策の観点から使用休止の張り紙がされていたようです。異質なもの同士が出会う、コモンスペースとしてのテーブルはもう開かれたのでしょうか。過去と未来をつなぐ線描から、異なるもの同士がであうための公共空間をつくりだす線描へ。二つの線描の機能を力技のように繋げる、大胆な「線描」をテーマとした本展のレビューになっています。


国立西洋美術館:国立西洋美術館常設展 に近代化をみる(定光寧々)

 よくよく考えてみれば、上野に国立の「西洋美術」館があるのは不思議なことですが、当館が日本の西洋美術受容を支えたコレクションであることは誰もが認めるところです。そのコレクション展は、概ねつねに同じ作品を展示している常設展に近い形式をとっています。ですので、どの時期にでも名品が安定して見られる展示なのですが、そのなかで、筆者の定光さんは印象派にとくに着目されています。本文のなかでは、「目を凝らしても近づけない」という魅力的な断言から始まる、モネを中心とした部分になります。物理的に作品に近づけば、色彩をもった筆触が克明に見えてくる。周囲の色はざわめくように波打って、立体的に感じられる。けれど、数歩下がってみれば、全体は焦点を獲得して、池であったり、小道だったりと、ある風景画にかわる。こうした、それが絵画であることの意味や、その視覚的構造に踏みこんだ近代絵画に対して、主に伝統的な絵画は、宗教的、あるいは歴史的な知識を体現したモティーフのデータベースを前提として制作されていました。印象派は、まさにその転換期の代表として考えられます。以前、私は西洋美術館の常設展をまわる解説ツアーを開催したことがあるのですが、そうすると、モネのひとつまえの部屋、つまりクールベやマネ、セザンヌの絵画が並べられているところに入った瞬間に、それまでの絵画の説明の仕方を180度変えなければいけないことを実感するのですね。教科書では理解はしていたけれど、いざ人に説明すると、その変化にすこし驚いたのをいまでも覚えています。絵画に何が描かれているのか、ではなく、どのように描かれているのか、その効果はどのようなものなのか。これらを中心にして、説明する必要があるのです。例えば、西洋美術館の常設展を見て、たしかに印象派前後で何かが変わった気がする。しかし、それがなんであるのかは、うまく言葉にできていない。そんな方は、ぜひご一読ください。

不定期ではありますが、次回以降、公開日の古い順にレビューのご紹介していきます。次週のレビューもお楽しみに。