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執筆者の写真これぽーと

第4回:レビューの使い方会議(南島興)

これぽーとを主宰している南島です。


 突然ですが、前から少し疑問だったことがあります。毎月のように展覧会が開かれて、それに対するレビューがさまざまなメディアで公開されている。けれど、展覧会が終わったあとのレビューや、一度読まれた後のレビューはどこへと行ってしまうのか。書籍であれば、何度も読み直されることや本棚にしまっておいて、その時々で読み返されるということがありますが、展覧会のレビューで、それもネット公開のものは、なかなかそうはなりにくいと思います。どうしても一回の使い切り感が否めません。


 これはもったいないことだなと前から思っていました。本来、レビューは展覧会が終わったあとやその展覧会の存在すらも忘れられたあとにこそ、それがどんな展覧会であったのかを記録した資料として重要な意味を帯びてくるはずだからです。


 こういった問題意識からこれぽーとでは断続的に、南島がこれまで公開されたレビューを僕なりに紹介していくことにしました。題して「レビューの使い方会議(仮)」。試しにではありますが、この場でレビューの「使い方」をいろいろ見つけ出していきます。レビューを書いていただいたみなさんのためにも、読んでいただける方々のためにも、主宰者である自分には、それを発見していく責務があると思っています。


 第4回目となる今回は、2020年8月末に公開された神奈川県立近代美術館鎌倉別館と岐阜県現代陶芸美術館のレビュー記事をご紹介いたします。

 

 美術は美術だけで存在しているわけではありません。作品をつくる人にも生活があり、作品を運ぶ人にも生活があり、作品を見るひとにも生活があり、作品を守る人にも生活があり、作品を買う人にも生活があります。そうした人間の生きる時間のうちのある部分を使って、美術は生まれ、受け取られ、記憶されていきます。いままでも、これからも。


 だから、作品にはつねに生活の影があります。そして、作品の鑑賞にも生活の影があります。作品と鑑賞の成果として生まれる批評にも必ずや、誰かの生活の影が映り込まれているはずなのです。今回、紹介しようとしている、ふたつのレビューも、まさしく生活と美術の関係について論じたものになります。誰もが経験する生活はどんな風にして、美術作品のなかに現れるのでしょうか。光を当てれば、見えなくなってしまう、美術につきまとう生活の影に「形」を与えていきます。


 伊澤文彦さんのレビュー「神奈川県立近代美術館鎌倉別館:移りゆく日々から出発すること」はタイトルにあるように、美術作品と展覧会を「日々」という私たちのささいな生活に流れる時間からひも解くレビューです。生活という言葉と、「日々」の若干のニュアンスの違いには気を留めておくべきでしょう。つまり、生活とは朝起きて、ご飯を食べて、仕事に行くといった、習慣づけられた行動をイメージさせるのに対して、日々とは、そうした習慣が繰り返されていく生活の時間の流れ、その経過をイメージさせます。淡々と、しかし、少しずつ移り行く生活の時間としての「日々」。これが伊澤さんのレビューで中心的に語られるテーマになります。


 本展第一章では、黒田清輝の描くきらめく海辺や湖畔は、その時々の時刻と気象状況によって、微細な光の異なりが印象派風の筆致で表現され、ジャコメッティの何かを削り取るかのごとく描き出された身体像は周囲の空間との関係性を、筆の一手ごとに刻一刻と変化させていきます。また第二章では、佐野繁次のドローイング、とりわけ《乾物屋》も《裏木戸》に描かれた生活の裏側、というよりそれが本当は生活の表側というべきそこに住まう人々の日々の暮らしが、今日の私たちでも想像できるような繊細な観察眼をもって記録されていきます。そして、第三章に待ち構えるのが、李禹煥《With Winds》です。


 一見すると、ミニマルな作品ゆえに、「単純と複雑」、「純粋と不純」といった二項対立で捉えることができるように思えます。けれど、伊澤さんによれば、重要なのは、そうした対立構造の「切り分けられなさ」にあります。配される色は、グラデーションを伴って描かれ、そして、ひときわ目につく黒も、純粋な単色ではなくて、複数の色が混ざり合ったものとして考えられるからです。常に色々は、関係し合っている。《With Winds》というタイトルで、Windsは複数形である理由は、画面に浮遊する色々の複数性を指し示しているのかもしれません。つまり、複数形の色を隠し持った風ととともに、私たちの日々は去りぬ。生活のなかに流れる時間こそ、移り行く日々にふさわしいものはありません。


 生活における時間という、それぞれの体験によって、感じられ方が大きく異なるテーマから、もっと具体的な生活にかかわるもの、私たちの食文化を支える器にフォーカスしたレビューが、丹治圭蔵さんの「岐阜県現代陶芸美術館:「使う」と「観る」のあいだに」になります。こちらもタイトルのある通り、「使う」と「観る」という言葉の扱いに慎重になるべきでしょう。「のあいだに」で続けられているように、使うと観るという行為は、二項対立的に線引きがなされているわけではありません。ある一つの陶器のなかに実用性と鑑賞性が両立しているのです。たとえば、丹治さんはこんな風に書いています。


「デンマークのボディル・マンツの作品《Growing Weather》(2016)は、円筒型で上部が開かれており、水などを貯める用途を持つものに見える。しかし、段がある側面に細かいスリットが入っていることに気づいた瞬間、日用品としての可能性は消失し、その見え方は途端に転回する」


 両立、あるいは衝突と言ってもいいのかもしれません。水などをためる用途をたしかに想像できるものの、別のディティールに気づいたときには、鑑賞的な態度を持たざるを得ないような状態が、陶器を見る際に作り出されているのです。使うか観るかではなく、両方ともがすでにある陶器のなかに内在していて、その両立、あるいは衝突に私たちは直面していくのです。


 しかしながら、それに気づくことができるのは、見るという行為があってのことではないでしょうか。使うという行為のなかには、せんじ詰めれば、見ることは必要ありません。というのも、現実的に多くの人は日常生活の扱う家具や食器のことほとんど見ていなくても、使えてしまっているからです。そうでなければ、生活を営むことは難しくなります。

 

 では、見る方はどうかといえば、その行為の中には、おのずから「想像する」という行為が含まれています。なにかを見たら、私たちは、なにか別のことを想像してしまいます。想像しないでいることの方が、おそらくは難しいでしょう。陶器であれば、それを使ったときのことを、私たちは想像してしまうのです。

 

 丹治さんがつけたタイトルに戻りましょう。確かに使うと観ることのあいだに陶器はあります。ただし、その「あいだ」を発見することができるのは、「見る」という高次の行為によってだと想定できます。使うことを通じて発見できる陶器の豊かさももちろんありますが、見るという行為には見ることの以上の意味が込められています。陶器が、美術館で使われるのではなく、見られる意味があるとするならば、それは見ることを通じて、想像することが可能になるからなのではないでしょうか。


 少し、自説が長くなってしまいましたが、今回紹介した、伊澤さんと丹治さんのレビューはどちらも生活をテーマにした、とても丁寧なレビューですので、ぜひお読みください。



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