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第5回:レビューの使い方会議(南島興)

 これぽーとを主宰している南島です。来週で、これぽーとを始めてちょうど一年経つことに驚きとともに、なにか企画をしたいなと考えている、今日この頃。みなさんは、いかがお過ごしでしょうか。今週は、レビューの使い方会議の第5回目です。以下、説明に続いて、本文になります。

 突然ですが、前から少し疑問だったことがあります。毎月のように展覧会が開かれて、それに対するレビューがさまざまなメディアで公開されている。けれど、展覧会が終わったあとのレビューや、一度読まれた後のレビューはどこへと行ってしまうのか。書籍であれば、何度も読み直されることや本棚にしまっておいて、その時々で読み返されるということがありますが、展覧会のレビューで、それもネット公開のものは、なかなかそうはなりにくいと思います。どうしても一回の使い切り感が否めません。

 これはもったいないことだなと前から思っていました。本来、レビューは展覧会が終わったあとやその展覧会の存在すらも忘れられたあとにこそ、それがどんな展覧会であったのかを記録した資料として重要な意味を帯びてくるはずだからです。

 こういった問題意識からこれぽーとでは断続的に、南島がこれまで公開されたレビューを僕なりに紹介していくことにしました。題して「レビューの使い方会議」。試しにではありますが、この場でレビューの「使い方」をいろいろ見つけ出していきます。レビューを書いていただいたみなさんのためにも、読んでいただける方々のためにも、主宰者である自分には、それを発見していく責務があると思っています。

 第5回目となる今回は、2020年8月末と9月初週に公開された夢二郷土美術館と埼玉県立近代美術館、東京国立近代美術館のレビュー記事をご紹介いたします。

 作家が最後にたどり着く場所は故郷だったりする。初心回帰といえば、耳障りがいいですが、それは結局、元に戻ってきてしまったという無念の気もなくはないのかもしれません。けれど、その帰ってきた場所が、港だとしたら。竹下夢二は、幼少期よりよく通った生家に程近い牛窓港を、作品のなかにしばし登場させて、のちに開業した店は「港屋絵草店」、彼の半生を描いた自伝的小説は『出帆』と名付けました。大森春歌さんの「竹久夢二の港」は、夢二にとって、故郷とは港なのであったとすることで、初心回帰が終着点ではありえず、必ずそこから何かが交換されてはじまる始発点であると思わせてくれます。夢二の美人画が、彼が死してなお、今日の私たちまでの手元まで届いているように。


 男と女、という区別それ自体が問い直されるべきだけれど、一旦、その区別を受け入れたうえで、美術史を振り返ると、女性モデルに比して、男性モデルの数が圧倒的に少なく、かつ、描かれ方にも大いに差があります。したがって、問い直されるべきは、その視線の主体がどんな存在であるのか、ということになります。紺野優希さんの「何が異型・異界を象るのか」は、まさにタイトル通り、その「何が」という主体の在り方を問うています。例えば、ポール・デルヴォーの描く異様な裸婦像は、裸婦の方に異様さがあるのではなく、そう描いた作家の方にある種の異様さがあるのだ、という形で。とはいえ、見逃すべきではないのは、本レビューが異様さの断罪にではなく、その異様さの分析に努めている点であることは記しておきます。


 日本のコレクション展といえば、まず東京国立近代美術館は外せません。近現代の日本美術、およびそれを取り巻く欧米、アジア圏の美術作品が豊富に所蔵されており、コレクション展内に小企画が立っているので、何度足を運んでも飽きません。中村馨さんの「ゆらぐ展示室 『不安』から見るMOMATコレクション」は、そうした日本の近代美術が西洋美術の受容に際して抱え込んだ内容と形式のズレによる不安、戦争の生み出した身体の不安、そして現代美術作品にみられる「見ること」の不安という、三つの不安について論じたレビューです。この2年、私たちが一定の恐怖感ととともに、なんとなく感じ続けている、先の見えない不安。そのさまざまな形を、美術作品を通して、あぶり出します。

・執筆者プロフィール

南島興

1994年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了(西洋美術史)。これぽーと主宰。美術手帖、アートコレクターズ、文春オンラインなどに寄稿。旅する批評誌「LOCUST」編集部。https://twitter.com/muik99