小雨のなか、はじめての駅をおりた。中村橋駅。池袋から西武池袋線に揺られていると、見慣れない駅名が目に入る。東長崎。小学生の頃、夏のうだる日を長崎駅の、名前も忘れてしまった喫茶店で、親戚と待ち合わせたときのことを思い出す。記憶のなかでは、オレンジジュースの氷がツンと頭を冷やす、心地よいCMのワンシーンのようだけど、実際はどうだっただろう。東京に暮らし始めてから、長く経つので、すっかり故郷のことは忘れてしまった。練馬区立美術館に来るのは、今回がはじめてになる。
傘もささずに駅から歩いてきたので、少しだけ申し訳ない気持ちで、展示室へと足を踏み入れた。美術館には趣味程度でしか訪れない私の印象からすると、この練馬区立美術館は、小規模ながらに、ちょっとエッジの効いた展覧会を開催している。そんなイメージを友人から植え付けられていたので、今回の展覧会「8つの意表」は、その意味するところとは、まったく反対の意味で、意表をつかれるものだった。本展の趣旨では、激動の時代のなかで、自己と社会を見つめて、どのような予期もしない表現をつくりだし、こころのままを表現してきたのか。この二つの意味で「意表」という言葉が使われていて、練馬にゆかりのある作家を順当に紹介していく展示方法だったからだ。
四角のフレームで区切られた絵画が、概ねどれも同じ高さに水平垂直をきっかりと保って掛けられている。ただ、それだけで長崎県立美術館かどこかで見た公募展のように、なんともいえない懐かしさを覚えてしまう。こうしたオーソドックスな展示に、私の偏った情報源による当館へのイメージであるけれど、意表を突かれた気がした。そして、どちらかといえば、私は現代アートのきらびやかな展覧会より、しずかに絵画だけがただただ並べられているこの古風な展示を好んでいることにも意表を突かれた。きっとメディア等々で話題になることは少ないのだろうけど。
好んではいるものの、すべての作家と作品に触れることは到底できない。それでも、いくつか気になる作家がいた。これまで名前も存じ上げなかった画家ではあるけれど、古沢岩美さんと野見山暁治さんは、まったく異なるタイプの絵描きとして、関心を抱いた。と自然に書きながら、展示されている作家をさん付けして評するのは、なにかレビューとしてふさわしくないとも不安になっている。少なくとも、私が読んだことのあるレビューの類では、作家をさん付けなどはしていない。それもどういう習慣なのだろう、と私は思ったりもする。だから、ひとまずは、古沢岩美さん、野見山暁治さんと呼んでみたい。
古沢さんの絵画は、いっぽうでは、解説文にもある通り、いまから100年ほど前に誕生したシュルレアリスムの作品に似ている。だから、少し古めかしい感じがする。まさに「意表」を突かれる、不思議なものとものとの組み合わせは、シュルレアリスム的と言ってしまえる部分もある。ただし、たほうでは絵画から読み取れる情報は、そんなあっさりと言い切れるものではない。めらめらと燃える情念のようなものが、垣間見えるのだ。あくまでも画家の管理下で。と思いながら、目をスライドさせていくと、文字通り、炎を描いた《火炎ビン》という作品、そして燃え盛る炎のなかに勇敢な顔を浮かべる三島由紀夫を描いた《三島由紀夫市ヶ谷駐屯地にて》を、私の意表のままに発見することができた。やっぱり、炎だった。といっても、前者はコカ・コーラの瓶が火炎瓶に重ねられているから、そこで燃える頬は、何か現代の消費社会に渦巻く欲望のメタファーなのかもしれないし、後者は三島が自決した瞬間、あるいはそのあとを描いているのだとしたら、その炎は自らを自らの意思によって焼き切る死のメタファーなのかもしれない。いずれにしても、古沢さんの描く炎は、シュルレアリスム的な画面作りの隙間から、どうにもならない大衆と個人のめらめらとした情念を伝える重要なモティーフなのだと思った。
その火消し役かのようにクールに振舞うのが、野見山暁治さんの作品たちだ。ちょうど順路としても、古沢さんのあとに野見山さんがいる。さっきは、シュルレアリスムだったけれど、今度は、国立西洋美術館や東京国立近代美術館でみたポール・セザンヌの独特な静物画を思い出した。一瞬だけ、乱雑な筆遣いに見えるのだけど、すぐにそれがとても理知的に構成されていることに気が付く、あのセザンヌの作風。コンマ何秒の時差を伴って感じられる、その「らしさ」は一体何のだろうと考えたこともあったけれど、やはり理解するのはとても難しい。それでも、絵画はひとつのフレームしか持っていないにもかかわらず、そのなかにふいに複数のフレームが入り込んでいる(ような気がする)から、絵画のなかに厚みがあるように感じられたり、ときに描かれた空間が室内なのか、室外なのか、天空なのか、その絵画の内側のスケールも伸び縮みするように見えたりする。おそらくは、こうしたひとつのものとして存在する絵画のひとつしかないフレームのなかで、複数のものと存在させて、複数のフレームを挿入してみせてしまう、というところに野見山さんの絵画の、私にとっての謎がある。まだまだ理解には程遠い気がするけれど。
本展の図録は売っていなかったから、収蔵品選をパラパラとめくりながら、さっきまで見ていた絵を探す。すでにいくつかの作品のことを思い出せない自分にふがいなさを感じながら、でも、そんなものなのかもしれないとも思う。小説を読み終わって本を閉じた瞬間、さて、どんなお話だったのだろうと分からなくなってしまう。さっきまで、熱中していたはずなのに、どうやったら、うまく展示のことを、小説のことを思い出せるのだろう。長崎のことはもう10年以上の前のことだから忘れていても、仕方ない。でも、さっきまで見ていたはずなのに。とすると、いまこうして展示についてあとから文章を書いている私は、本当は忘れてしまった作品について、ちょっとだけ嘘をついて書いてしまっているのかもしれない。あたかも、私の頭のなかに漂う作品のイメージが、本当の作品かのように。
美術館をでると、少しだけ雨が強くなっていた。傘はもっていない。行きと変わらず、少しだけ濡れながら、もうはじめてではない駅に戻っていく。少しだけ、元気が出てきた。はじめての駅を降りて、はじめての美術館に訪れて、はじめての作品を見た、そんなタイトルのレビューを書いてみたいと思った。
会場・会期
練馬区立美術館「8つの意表~絵を描く、絵に描く、画家たちのキセキ~」
2021年4月30日から6月20日まで
・執筆者プロフィール
穂高なお
都内の広告会社で働きながら、趣味で美術や映画もよく見ます。学生の頃は、それなりにまじめに西洋美術史を学んでいましたが、最近はその知識も錆びつきがちなので、レビューを書きながらリハビリできたらなって思ってます。旅行とイタリアンをこよなく愛す。
Comments