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京都嵐山オルゴール博物館:自動人形、あるいは懐中時計に秘められた特別な時間(河野咲子・南島興)

南島:先日、京都に行ってきました。ぼくは知り合いの作家さんが参加している京都芸術大学「KUA ANNUAL 2022」のプレオープン展と京都国立近代美術館のコレクション展、そして嵐山の観光地のなかにある京都嵐山オルゴール博物館に訪れました。


河野:私は南島さんの旅程の最後の、オルゴール博物館から合流して展示を見ました。オルゴール博物館にはもちろんオルゴールはたくさん展示されていたけれど、それより圧倒的な存在感があったのがオートマタ(自動人形)でした。特にフランソワ・ジュノのオートマタにほんとうに凄味がありましたよね! 信じられないくらい精巧で、そしてちょっとユーモラスで。あまりに印象深かったので、帰りの新幹線でジュノの作品の動画を検索して延々と眺めてしまったくらいです(笑)


南島:フランソワ・ジュノは今回はじめて知って、ぼくも驚きました。ジュノはオルゴール博物館の解説によれば、現代オートマタ作家の最高峰と紹介されています。彼の工房があるのは、スイスとフランスの国境にある雪深いジュラ地方で、その一帯は精密な機械時計や自動人形の技能士たちが何世代にも渡って工房を構える場所です。彼らの技能が2020年12月にユネスコの無形文化遺産に登録されたことをご存知の方もいるかもしれません。オルゴール博物館にはジュノの最初の作品となる、実在した天才時計職人ジャケ・ドローが自身の名前をサインする『ジャケ・ドロー アンドロイド No.1』や葉巻を吸うユーモラスなスモーキングドール『世紀末の月』など7点のオートマタがコレクションされています。


河野:オートマタの技術はもちろんいまでは、というか20世紀以降には実用的には廃れているはずですが、フランソワ・ジュノは現代の作家であるにもかかわらずわざわざ往時の技術をつかってオートマタをつくっているんですよね。ロボットをつくるための技術ならいくらでもあるはずなのに、あえて「からくり」の時代の技術でつくっていることには理由がありそうです。


南島:AIを知らない過去の技術者が夢見た未来の姿を見たような印象を受けます。つまり、私たちが今日、ジュノのような非常に精巧であるが、どこまでもアナログなオートマタを見て、なにか惹かれる感じがするのは、その技術が醸し出すレトロフューチャー的な趣きによるところがあるとは思います。しかし、そうした技術が時代錯誤的に用いられていることへの単なるノスタルジーだけではないような気もしています。


河野:後から動画を見ていて気づいたんですけど、ジュノの作品って、もちろんオリジナルな作品もあるとは思うのですが、少なくない割合の作品が、過去に無数のからくり職人たちがくりかえし制作してきた人形たちへのオマージュでもあるのですよね。膨大な文脈への参照、いわば「本歌取り」としてつくられている。


南島:そう、しかも、あらゆるオートマタは機械式時計への本歌取りと言えます。


河野:時計の?


南島:そもそもジュノが工房を構えるジュラ地方は何世紀前にも遡る、機械式時計の世界的な生産地です。ぼくもあとで見た紹介動画で知ったのですが、オルゴールとオートマタは機械式時計の技術の応用で作られているようなんです。ですから、あらゆるオートマタは、機械式時計へのオマージュとして考えることができます。オートマタとは別の仕方で時を刻む、別の形をした時計と言えるのです。


河野:オートマタを時計の変奏として考えてみるというのは確かに示唆的ですね。美術の話とは離れるのですが、時計のモチーフがなにか特権的なシンボルとして使われているお話ってよくあるなあと感じたことがあります。たとえば、ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」のうさぎは時計を握っていますが、あのうさぎはアリスを「不思議の国」へと導く、すなわちお話の始まりを告げる存在です。あるいは宮沢賢治「銀河鉄道の夜」のカムパネルラの父親も時計を握っているのですが、彼は、自分の息子が川で行方不明になっているのに「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから」と言って息子の捜索を打ち切らせ、物語自体の終わりを告げるという不思議な役回りになっています。時計というものが、少なくともある時代には、このように全体を統べるものとして観念されえたのはどうしてなのでしょう。いまではそんな魔力が時計にあるとはあまり思えません。


南島:機械式時計の場合には、内部と外部の環境は完全に断ち切れていますけど、デジタル時計はその両方を完全にリアルタイムで同期させてしまう。いや、同期させることで、私たちは同じ時間を生きることができるようになるのだから、それこそが時計が存在する意味を果たすやり方だとは言えます。しかし、逆の言い方をすれば、機械式時計はこの時計はこの時計として閉じられた自己完結的機械であるからこそ、外部環境からは逸脱した超越的な存在なのだと言うこともできますね。これはなにも抽象論ではありません。自動人形は停電しても動うことができる。すなわち、世界から孤立しているということです。


河野:確かに、機械式時計は、厳密な意味での永久機関ではないのだけど、永久機関によって夢見られたものに近い存在感がありますね。手のひらの中でひとたびぜんまいを巻けばいつでも同じ時間をくりかえし刻むことができるということは、つまり、世界の流れから解き放たれた特別な時間をそこに秘匿することができるということですね。そして、そのような特別な時間の反復は、いかなる変転とも無縁の永遠のほうへと開かれているということでもある。


南島:デジタル時計はすぐ同期されちゃうけど、機械式時計はそこから逃れることができるんですよね。


河野:私がしばらく前に使っていたおんぼろのPCはやや超越的だったのでつねに時間の表示が数分遅れていたんですけど、それは置いておくとして……懐中時計の内部には、宇宙が、銀河が、あるいはウサギの穴がひろがっていた。なぜなら懐中時計の時間は(物語の)外側の時間と同期されえないから!ということですね。


南島:私たちがもってる時計らしきものが完全に外部と同期されているとすると、私たちはそれぞれの固有の時間を奪い取られていることになります。この手のひらにあるのは、私の時間ではないのですね。この時計だけの時間、私だけの時間は、スマホやタブレット上に存在できないからです。時間は、いまだれにも所有できないものになっている、そんな風に言ってみても間違いではないと思います。


河野:つねに世界中のネットワークに接続されているApple Watchからは一切の魔力が奪われている。


南島:つまり物理的な距離による時差以外の「時差」がいまや失われてしまったということが、我々を自動人形へと誘っているわけですね!「時差」とはそれぞれが世界から隔絶した時間を刻むことによって生まれる時計同士、あるいはその持ち主の生きる時間同士の間に生まれるズレのことです。こうした機械式であることによって必然的に生まれうる「時差」こそ超越の条件なのかもしれません。なにかロマンティックな話ですね。


河野:といいつつ、私はじつは時計はApple Watch派なのですが、それはむしろ時計というものを特別なジュエリーとみなすいかついロマンティックさから逃れたいからなのかも。むしろApple Watchは時間の魔法がすっかり解けているので、気軽に持てる(笑)


南島:もの自体がもっている魔力みたいなことで言えば、機械式時計はおそらく修繕を繰り返せば半永久的に使えてしまうことも驚きなんですよね。スマホやタブレットではそうは絶対に行かない。むしろ、頻繁に買い替えることが良き事として推奨されています。30年物のスマホなんて、ただの無用物なわけです。しかし、機械式時計の場合は話は違う。これは比喩的になりますが、機械式時計はほとんど鉱物などに近い事物としての耐久性が備わっているんですね。少なくとも人の一生は軽く超えることができます。


河野:それで、機械式時計からフランソワ・ジュノの話に戻るわけですけど……つまり、なぜ彼がわざわざからくり人形の技術でオートマタをつくるかという話なのですが、そのような特別な時間をもつことの神秘性によってむしろ生命を吹き込まれる存在というものがあると思うんです。それは、オートマタがまるで人間のようなリアルな時間を生きているということでは決してありません。むしろ、わたしたち個人の時間はつねにわたしたちの生きた時間から自由になることはできないですから。そうではなくて、たとえばスフィンクスのような存在を考えてみたとします。


南島:唐突ですね。


河野:スフィンクスのような存在って、複数の神話や物語のなかに繰り返し現れていながら、それにもかかわらず同じスフィンクスというアイデンティティは共有しているという意味で面白いなあと思うんです。あるいは、西洋絵画の世界ではアトリビュートによって記号的に繰り返し、異なる絵画のうえに表現される存在がたくさんいます。「スフィンクス」とは、一般的には固有名詞に分類される語だと思いますが、しかしほんとうにそれは固有名詞的な振る舞いをしているでしょうか? このように、無数の物語をかるがると横断しながら名前の固有性から逃れ出ることのできる存在は、リアリティとはまったく無縁でありながら特別な生命を持っています。たいていの小説の中に出てくるキャラクターは、小説の時間と不可分の固有の時間を生きるしかないけれど、それとは対照的に。そして、フランソワ・ジュノがあくまでからくりの技術にこだわるのは、彼のつくるオートマタが、スフィンクスと似たやり方で時を超えた生命を持った存在になるためには必然だったのではないかという気がするんです。ちょっと強引かもしれないけど……


南島:なるほど。からくりとは一度始まれば、どんな時代、どんな社会のなかにあっても、常に同じように終わるまで動き続けます。そう、終わるまでは動き続けることができる。ということは、常にそれを再生しようとする、誰かを必要とするはずですね。ジュノのような職人、あるいは画家は、その誰かの到来を信じられるからこそ、別の時間への入口を作り出すことができるのではないでしょうか。まさに私たちがオルゴール博物館で、オルゴールではなく偶然の出会いによってオートマタを再生してみてしまったように。あのとき、たしかに嵐山には観光地とは別の時間が流れていました。ほんの数分の間だけ。

 

会場

京都嵐山オルゴール博物館

 

・執筆者プロフィール

河野咲子

フィクション、短詩、批評などに興味を持ちつつ、小説をはじめとしていろいろなテキストを書いています。


南島興

1994年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了(西洋美術史)。これぽーと主宰。美術手帖、アートコレクターズ、文春オンラインなどに寄稿。旅する批評誌「LOCUST」編集部。