橋場佑太郎さんは美大を卒業後、千葉大学大学院に入学して、民芸研究をされていた方です。そのほか外部の展覧会やアートプロジェクトに参加されています。今回は2020年7月にリニューアルオープンした千葉市美術館のコレクション展についてレビューしていただきました。(南島)
千葉市美術館はさや堂ホール(旧川崎銀行千葉支店)を建物が囲む様な不思議な設計となっている。この入り組んだ建物を設計したのは、川口駅や川崎駅といった郊外の都市計画にも関わった建築家、大谷幸夫の設計事務所である。これまでさや堂ホールの上に建設された建物には、市役所の上に美術館が建てられるという不思議な構造となっていた。区役所移転に伴う改修工事を経て、生まれ変わった美術館では、新たに常設展示室やワークショップルーム、地下の居酒屋などが加わった。特筆するべき点でもないが、市役所の後に設計された常設展示室は立ち入ったときに公民館か病院に訪れた様な感覚が印象に残っている。
常設展示室では、「千葉市美術館コレクション名品選2020」と題し、千葉市の風景画や琳派による作品、江戸から昭和の版画、現代美術家による作品が展示されていた。一見するとばらつきのある展示内容となっているが、筆者はこれらを「市井の眼差しから捉える風景」という括りから考察してみたいと思う。
展示室に入ると、まず洋画家、椿貞雄による《風景》(1952年)が展示されている。描かれている具体的な場所は定かではないが、キャプションでは「前景の松から稲毛の周辺が想定されます」と書かれている。私は「稲毛」というとすぐに「稲毛海岸」を連想してしまうが、目の前の画面にはそうした郊外の風景と全く異なる南国情緒溢れる風景が描かれている。「描かれた千葉市と房総の海辺」では、その後、遠藤健郎による油絵が展示されていた。遠藤は千葉市在住の画家でもあるが、それだけでなく編集者、美術教師、徴兵、市役所勤務といった様々な職を転々とする中で、鋭い視点で風景を描いていく。敗戦後の千葉の風景が農夫とともに描かれた《夕日》(1945−50年)では、椿による南洋の様な風景の後に遠藤が描く乾燥した何処か寂しげな風景が展示されている。
展示室は奥に進むにつれ、抽象画を描くような方法で描かれた作品の展示が目立つようになる。版画家の船崎光治郎が描く《千葉県立中央図書館》(1968年)は改築後、現在も存在しており、大高正人設計の建築としてDOCOMOMOに登録されている。船崎は第二次大戦以前の樺太(サハリン)において多様な植物を調査する作業を行なっていた人物でもあり、同好会「版画を作る会」を発足した人物としても知られている。本作品は輪郭がくっきりと描かれた作品となっている。県の施設が描かれた版画が同好会からの寄贈として収蔵されていることは、この美術館がそれだけ親しみのある館であることを表している。この「版画を作る会」は同じ壁に展示された版画家の金子周次による《作品名不詳(犬吠埼)》(1976年)も収集し、当館に寄贈している。銚子生まれの金子による、波を素描の様なタッチで切り取る視点は、山口長男による《海浜(保田)》(1960年)とも呼応する様に配置されている。山口の描いた海辺は、山から望む海を描いており、山脈が赤い線で縁取られている。そのため、線と面が押し出された平面的な作品として鑑賞できる。外房と内房という全く正反対の千葉の風景を描いているにも関わらず、金子の版画と山口の絵画を同じ壁に展示する事で、線と面について考えさせられてしまう。山口の眼差しは抽象を描く作家の手つきを想像させる。この山口による抽象化した山脈と遠藤による南国情緒溢れる風景は、どこか洋画の画材と日本の風景が不釣り合いに感じられてしまう問題と関係しているように思えてしまう。画家たちによって切り取られた風景は、果たして日本の風景なのだろうか。ここは千葉ではないどこかなのではないか?そうした戸惑いを覚えたのも正直なところだ。
さて、ここまで近代の洋画が展示されていたが、ここから近世に時代を遡る構造となっている。特集は「琳派」となっており、主に襲名によって更新された「琳派」の文脈が俵屋宗達、酒井抱一、中村芳中の作品から読み取れる。その隣の展示では江戸時代の葛飾北斎や歌川広重、川瀬巴水、吉田博といった近世から近代に渡る版画家の作品が展示されている。中村芳中による平面化された《白梅図》(文化期(1804-18年)頃)は「かわいさ」として消費されてしまい、その隣の「風景画の名品」として空間に展示された葛飾北斎の「富嶽三十六景」からは、どの風景にも「富士山」という象徴が点在されており、過剰に登場する富士山が眼に映る。
しかし、こうした「かわいさ」として消費されてしまう表現や過剰に登場してしまう富士山など、表面的な造形要素で解釈されてしまう風景とは異なる風景も点在している。俵屋宗達による《許由巣父図》(元和~寛永期(1615-44年))のキャプションには、「堯帝に天下を譲ると言われた許由は、そんな俗事を聞いて耳が汚れたといって耳を洗った。巣父は許由が耳を洗ったその川の水もまた汚れたとして、曳いてきた自分の父にその水を飲ませずに引き返したという、中国古代の伝説上の高士の故事を描く」と書かれている。描かれた水牛と高士はとてもユーモラスな表情をしており、この水牛を引く人物が歴史学者、網野善彦の『異形の王権』の中で描かれた「牛童子」と重なった。網野は、著書『異形の王権』のなかで乞食非人の差別が横行する室町時代以前の「牛童士」について、権力者たちを鋭く批判、風刺し、笑いとばす地位を確立していたと指摘している。本作は、それから100年ほど経過した作品であるが、そうした童形の表情に似通って見える。そして、葛飾北斎の《「元禄歌仙貝合 さくら貝」》(文化12-14年(1815-17年)頃)には、私的に製作され、知人に配った狂歌が綴られている。狂歌は、社会風刺としての機能を持っており、北斎と同じ壁に展示された浮世絵師、丹羽桃渓も鉄格子波丸の門人として度々、狂歌を綴っている。北斎による狂歌と絵の作品からは、象徴としての富士を描く北斎と別の一面を覗き見ることができるだろう。
千葉市の風景画や琳派による作品、江戸から昭和の版画が展示された空間の隣の空間では、榎倉康二と宮島達男による作品が展示されている。榎倉によるシリーズ《予兆》に関してキャプションでは、「写真を撮影する行為は、高度情報化によって遠くに離れてしまった世界を、自身の肉体に近づけるための手段であったといえよう。」と書かれている。確かに《予兆−海・肉体(P.W.-No.40)》(1972年)では榎倉自身が風景の一部として積極的に介入している。この試みは、榎倉が藝大で教鞭を執っていた時代の教え子である宮島達男が竹林の中で水墨に顔を浸すパフォーマンスにも受け継がれているものだろう。本作《Counter Voice in Chinese Ink》(2018/2020年)は、上階で現在開催中の企画展「宮島達男 クロニクル 1995−2020」のなかで展示されている。現代において、写真はSNSによってシェアすることで「誰でもアーティスト」として振る舞う場所が提供されたが、それによってかえって、私たちは「風景を捉えること」が何を意味しているのか、その風景に対する問いかけを無意識の奥へと追いやってしまっているのかもしれない。
ここで、展示室の冒頭に展示された椿の《風景》を捉え返してみる。この風景は、東京から電車でこの美術館に向かう人からすれば通り過ぎてしまう景色であるが、実際の景色はどう見えるのか。いま一度、駅を途中下車して散策することをお勧めしたい。
会場・会期
千葉市美術館 「千葉市美術館コレクション名品選2020」展
2020年10月6日(火)-11月1日(日)
・執筆者
橋場佑太郎
1995年川崎生まれ。千葉大学大学院修了。大学院では民芸を研究。
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