top of page
  • 執筆者の写真これぽーと

国立国際美術館:線描はいかなる機能を有しているのか?(松村大地)

 本展は「ドローイングの諸相」、「作品と鑑賞者の身体的関係性」、「越境性」の3つのテーマから構成される。それらを通して、美術史上では絵画や彫刻の下位に置かれてきたデッサンやスケッチなど「線描」という行為/言葉を多視点的に再考する。


 とはいえ、線を引く行為自体は、絵や文字に限らず我々にとっては日常的なものであり、かつ古代の洞窟壁画やロゼッタ・ストーンへの刻印のように、芸術活動においても極めて原初的なものであると言える。


本展はそうした「draw=引き出す」という意味を由来するドローイングの豊かな実践について、提示するものである。


 さて、最初に目に入るのは、キキ・スミスの《闇》(1997)である。床に両膝をついた姿勢の性別の分からない子供の彫刻が膝立ちをしている。両手を開いて、跪くその姿は「無原罪の御宿り」のボーズに似通っている。その背後には、9点のデッサンが展示されている。


 この展示方法は制作の時系列からすれば、デッサンは作者が最終的な完成形としてイメージする彫刻より先行して行われていることをまずは示唆している。デッサンが彫刻と横並びでなく前後に配置されることで、これから作り出される、すなわち、彫刻となる作品の姿を予見させる。いわば、未来へと開かれた可能性を秘めていることも直感できるのだ。ただし、《闇》の場合には、それだけでない。彫刻の背後のデッサンの中には、ほとんど人間の顔が消失した様子も描かれていることから、そこでは未来に制作される彫刻が実体をもたない可能性、不在や消失を存在条件のひとつとして有する彫刻の存在までもが暗示されていると言える。


 こうした不在を含んだ未来へと開かれたデッサンとは対照的に過去へと遡行してみせるのが、次に展示されているヴォルスの銅版画である。33点に及ぶ、本作は自身の名が付けられた版画集《ヴォルス》(1945-62)の全作品で、複雑に絡み合う線が縦横に走るなか、急に折れ曲がったり、別の曲線が現れたりして、それらが紙上で重なり合う。


 一見したところ、描かれている対象が何かということを判断することは難しい。けれども、それゆえに鑑賞者の目は半ば必然的にヴォルスの線描の流れ、そのものに向けられることになる。銅版画に刻み込まれている線へと着目することは、過去にその版を彫っていたヴォルスの微細な動きや手の震えをたどることをも意味するのだ。鑑賞者は描かれたモティーフの不確定性に向き合いつつ、画面にとどめられた線という痕跡を見ることを通して、作品を制作するヴォルスの姿を想像してみることになる。


 このようにグラフィックはそこに刻まれた過去へと現在の鑑賞者のまなざしを導く。これは冒頭で述べたような人類の大昔からの営みをも連想させるだろう。


 ところで、今般のコロナ禍の影響で本展も例にもれず延期された。そこで本来の会期中にあたる5月31日に逝去したクリストの作品もいくつか展示されていた。《包まれたライヒスターク(旧ドイツ帝国議事会議事堂)とベルリンのプロジェクト》(1980)、《包まれたポン・ヌフ(パリのためのプロジェクト》(1981)である。これらクリストの作品は街中の建築物、時には島全体を丸ごと大きな布で包むというもので、さながら、生活空間に突如として異質なものが出現する「デペイズマン的手法」を思わせるものだ。


 展示されている2作品はプロジェクト型作品のためのスケッチであり、布、糸、パステル、木炭、鉛筆、地図、紙がコラージュされている。木炭やパステルで描かれた街並みを背景に、ライヒスタークとポン・ヌフはこの画面においても布に包まれている。


 ごく自然にイメージできるように、スケッチは作者の認識や着想を即時的に仮定する。クリストが小さな布でライヒスタークを実際にラッピングし、仮設的にではあれ、仮のライヒスタークの姿を現出させたことは、スケッチの機能をよく表しているように思える。


 つまり、スケッチは私的な造形の「シミュレーション」であるという言えるかもしれない。絵画や彫刻と異なり、必ずしも完全性が求められない営みである。シミュレーションであるために、スケッチはつねに不安定に揺れ動く。その半端な不確定性によって、作者はスケッチを通して、作品の始まりと向かう先を想像し見定めることができるのだ。たいして、鑑賞者は線の来た道と行く先を想像する余白を得ることができる。シミュレーターとしてのスケッチは、作者と鑑賞者それぞれにとっての過去と未来を繋ぎとめているのだ。

 

 クリストの場合、シミュレーションのひとつの出力として考案されたスケッチは、デベイズマン的なイメージに似通るのである。


 ここで当たり前のことを確認してみよう。線描は、絵画制作とは異なり、しばしば机の上においた紙に描かれる。言い換えれば、キャンバスが垂直に立てられるのに対して、紙は水平に寝かされる。この制作スタイルの差異は、作品と画家の身体的な関係性のみならず、作品と鑑賞者のそれへと波及していくことになる。


 支持体の垂直性は鑑賞者に一対一の対話を感じさせるが、水平性は「作業‐面」の印象をもたらし、鑑賞者はその紙面の内容を読解しようとする。線描への意識に、支持体への意識が誘発される。どのように設置されるかのみが問題ではない。紙が線描の支持体である場合、鑑賞者は観るというよりも、「読む」という作品との付き合い方を要請されるのだ。


 《オブジェクト・リーディング》(2002-15)と名付けられたのは、青木陵子の作品だ。壁面全体に紙や布によるコラージュ作品や細密なドローイングが不規則な配置された本作では、まさに鑑賞者は額縁一つ一つを見るというよりも、複数の額縁を同時に視界に入れて、壁面全体を読むことになる。


 読むことを要請する「水平性」は、デペイズマンの条件でもある。よく知られるとおり、ロートレアモンの「ミシンと蝙蝠傘との解剖台の上での偶然の出会い」において、ミシンと蝙蝠傘という異質なモノ同士の出会いは解剖台という平らな台のうえで引きこされるからだ。垂直なキャンバスではなく、水平な紙の上でこそ、デベイズマンは発動し、鑑賞者はその異質さの原因を読み解くのだ。


 その意味で、見落としてはならないのが、展示室におかれた真っ白なテーブルである。本来ならば、図録や関連資料が置かれ、来場者たちがそれらをともに「読む」ためのテーブルである。しかし、こうした水平性が担保する、公共的な行為は、感染予防の観点から禁止されてしまっていた。はからずも、その禁止によって明らかになるのは、デベイズマンを可能にする水平な台は、人々のコミュニケーションを促す公的な場でもあるということだ。同じく台のうえに横たわり、うさぎの特徴を書き留めていく泉太郎の《ひさしと扇子》(1976年)においても、その台は人間とうさぎが集まる、公的=コモンスペースとして機能していた。クリストのスケッチにデペイズマン的な印象を受けたのも、単に異質さを表出ではないだろう。それは、その先の未来の想定された現実的なコモンスペースの読み替えこそを達成するための、下準備であったのだ。


 線を引くこと、すなわちドローイングは「引き出すこと」を語源にもつ。ここまで確認してきたように、そのとき引き出されるものは、物理的なものだけではなく、時間でもあるだろう。それも過去だけではない。ときに、これから到来する「未来」も同時に引き出してみせることが可能となる。制作過程のなかの離れた時間を繋ぐ力が、ドローイングには備わっているのだ。そして、未来に開かれた線は、いつしか公共的な場の礎になるかもしれない。


 

「越境する線描」展

会期: 2020年6月2日から10月11日まで

会場:国立国際美術館

※会期中に一部展示替え有り。(前期:2020年6月2日から8月2日まで/後期:8月4日(火)から10月11日まで

※企画展示室では「ヤン・ヴォ― ーォヴ・ンヤ」展が同会期で開催。

 

・執筆者

松村大地

京都工芸繊維大学のデザイン・建築学課程に在籍中。建築やキュレーションを学ぶ傍ら切り絵作家としても活動しています。最も興味があるのは20世紀の美術で、国立国際美術館によく足を運びます。おすすめの美術館は軽井沢千住博美術館です。現在、大阪在住。



bottom of page