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岐阜県現代陶芸美術館:「使う」と「観る」のあいだに(丹治圭蔵)

 岐阜県現代陶芸美術館は、岐阜県の南東、いわゆる東濃と呼ばれる地域に位置する多治見市に、2002年開館した。同館は「陶磁器をテーマにした産業振興・文化振興・まちづくりの拠点」を目的に、磯崎新により設計された複合施設セラミックパークM I N O、2階フロアの一画にある。なお、多治見市は美濃焼の産地として長い歴史を持ち、美術館の近隣には、陶磁資料館やモザイクタイルミュージアムなど、陶磁器産業にまつわる施設が点在している。筆者が訪れたのは6月中旬。雨上がりの蒸し暑い気候であったが、四方を木々に囲まれた涼やかなところであった。


 まずは、常設展示にも関連するため、現在行われている企画展について簡単に紹介しておく。企画展示室では、フィンランドのセラミックアーティスト、ルート・ブリュックの個展「ルート・ブリュック 蝶の軌跡」が開催されていた。1940年代当時、ブリュックはフィンランド国家が積極的にアーティスト支援をおこなっていた恩恵を受け、制作を活発化させていく。その多彩な仕事を網羅的に提示する本展は、日本で書籍やセレクトショップ等で紹介される、いわゆる「北欧デザイン」のようなスタイリッシュなイメージとは全く異なり、艶やかな釉薬の表現から細かなタイルで幾何学を組むような作品に至るまでを、ブリュックの活動の変遷を追いながら見せてくれる。


 さて、ブリュック展と同時開催されていた常設展は、「コレクション展」と称した北欧の陶芸/コレクション・ハイライト/「国際陶磁器フェスティバル美濃」グランプリ作品展であった。同館では、基本的にギャラリーⅠで企画展が、そして、ギャラリーⅡでコレクション展や地域に根ざした内容の企画展が行われている。


 天井が高く、自然光がやさしく差し込む最初の展示室では、企画展に関連し「北欧の陶芸」というテーマで紹介パネルと共に18点の作品が展示されていた。各国の地域差を示すようにそれぞれの特徴を持った作品が幅広く選定されている。デンマークのボディル・マンツの作品《GrowingWeather》(2016)は、円筒型で上部が開かれており、水などを貯める用途を持つものに見える。しかし、段がある側面に細かいスリットが入っていることに気づいた瞬間、日用品としての可能性は消失し、その見え方は途端に転回する。一方、カーリナ・アホがデザインを手がけ、フィンランドのアラビア製陶所が生産した《マヌカナ》(デザイン:1954)は、一見、目を閉じ鎮座しているユニークな雌鶏(マヌカナ)のオブジェのように見えるが、その内部には卵を収納することができるという。必ずしも効率を優先しないデザインや、シンプルながらもディティールに裏打ちされた表現は、美術と日用品の間隙を縫うように展開され鑑賞に楽しい混乱を招くものであった。


 2階に上がり、小さくほの暗い展示室では「コレクション・ハイライト」と称し、美術館が誇り名品と呼ばれる11点が展示されている。陶磁器デザイナーである森正洋の《G型しょうゆさし》(1958)、松田百合子《西瓜花瓶(フリーダ・カロへのオマージュシリーズ)》(1996)など時代や国、用途も異なる多様なものが一緒くたに展示されていた。展示室に入った時の雑多な印象は、自由な導線が喚起する緩やかな鑑賞によって、ストーリーを備えたものとして浮かび上がる。黒・赤・緑と3色で彩色され、3つの口を持つ河井寛次郎《三色扁壷》(1963)と、正面の目のような文様と細い縞模様が施されたバーナード・リーチ《蓋物》(1950−60年代)は、それぞれ部屋の壁際にありながらも、互いに向かい合っている。さらに、後者の右隣には、リーチの影響のもと制作を行なっていた、ルーシー・リーとハンス・コパーによる《ティー・サーヴィス》(1950年代)が展示されており、縦縞の装飾や素朴な色彩からリーチからの系譜を鑑賞体験のなかで読み取ることができる。本展は、各作品に説明のキャプションが設置されてはいたが、本質的には他の「モノ」との関係において作品を見せることに徹した展示であったといえるだろう。ただし、過去には、文化財保護法の制定や人間国宝の認定制度など、陶芸界における1950-1960年の政治的な動きに焦点を当てた「日本の陶芸:器諸相 1950’s-60’s」(2018)や、ポットやカップ、ソーサーなどのうつわから文化や、それらが織りなす時間や空間に焦点をおいた「お茶の時間」(2017)など、各論的にキュレーションされたコレクション展も開催されていることを補足しておく。


 そして、最後の展示室では、「国際陶磁器フェスティバル美濃」グランプリ作品展が行われていた。1986年から3年に1度開催されているコンペティションにおいて、陶磁器デザイン・陶芸両部門のグランプリを受賞した作品を展示している。陶芸部門の作品は、その目的が鑑賞に限定され、陶土を作品のメディウムとして扱っているクレイワークの特徴を有したものが大半である。西田潤の《絶》(2002)は、陶芸が持ち得ていた静謐さを脅かすような作品だ。艶やかさや、乾き、割れや欠けなど、様々な質感や状態が内部で入り乱れながらも外皮一枚で均衡を保っている。ここで鑑賞者は、圧倒的な質量や大きさ、素材の持つプリミティブな側面を目の当たりにし、陶芸作品が生活の中でなんらかの用途を持ち利用されることを要件にしているという思い込みがあったことを自覚する。また、用途がある作品にしても、「こういう風に使うものなのだろうな」という無意識の判断が反射的になされていたことを内省するだろう。


 この3つの常設展は、通して鑑賞すると、それぞれの関連性も希薄で雑駁なものに見えるかもしれない。国内に決して多くはない専門美術館として、ある程度の縦軸・横軸を伴うスパンを持ち、陶芸史や広く産業史に還元するキュレーションを展開するとなれば、必然的に取るらざるを得ない構成でもあるのだろう。しかし、同時に、これらの展示は用途の有無から鑑賞をスタートさせてしまう状況を解放する一連の流れを備えていたといえるのではないだろうか。こうした常設展における射程の広さは、「使う(ことを想像する)」ことと「観る」ことという鑑賞態度の交換が、美術館で陶芸作品を鑑賞する大きな魅力であることを伝えてくれている。


岐阜県現代陶芸美術館ギャラリーⅡ

北欧の陶芸 A室

コレクション・ハイライト B室

「国際陶磁器フェスティバル美濃」グランプリ作品展 C・D室「」

会期:2020年5月19日から9月6日まで

・執筆者

丹治圭蔵

1997年生まれ、情報科学芸術大学院大学(IAMAS)在学中。近現代美術史を手掛かりに、芸術作品における再制作について研究している。