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市原湖畔美術館:自動制作人形「チンタラ一世」と深沢幸雄(春原拓海)

 アクアラインで東京湾をまっすぐ横切り、ぼくたちは市原湖畔美術館(市原市水と彫刻の丘)を訪れた。「湖畔」と名付けられてはいるものの、高滝ダムの造成に伴ってつくられただだっぴろい人工湖・高滝湖のそばにぽつねんとたたずむ不思議な美術館である。


 この美術館では、企画展のほか、市原市にアトリエを構えていた版画家・深沢幸雄(1924 - 2017)の作品を常設展示している。


 この展示室を訪れるまで、正直なところぼくはこの版画家の名前すら知らなかった。けれども、常設展示室の真ん中に鎮座する奇妙な自動人形「チンタラ一世」を目にした途端すっかり心を奪われてしまったので、ここでは彼のことを紹介したい。


 「チンタラ一世」。その呼称もさることながら、とにかく奇怪な風貌のロボットである。これは深沢幸雄が制作したマシンであり、用途としてはメゾチントの銅版画を制作する際に下準備として必要となる「目立て」の作業を自動化するというものである。


 こんな人形は見たことがない(人形というより、カカシと呼んだ方がよいのかもしれない)。

 派手派手しい羽根の飾られた真っ赤なカンカン帽。両眼に当たる部分が顔からぽっかりとぞんざいに抉りとられ、ひどく虚ろな表情を見せている。どこまでもすっからかんのまなざし。

 肩にはバンダナのようなものが巻かれ、そこから伸びる腕が目立て用マシンの軸を動かしているようにも見えるけれど、その両手はだらりとしなだれた市販の軍手でできている。

(常設展は撮影不可だが、美術館サイトで画像を参照できる。でもぼくに言わせれば、実物の「チンタラ一世」は写真よりもずっと迫力がある。)



 そもそも「目立て」の作業を自動化する目的であれば、人形の見た目をしている必要はまったくない。実際、この自動目立て機「チンタラ一世」から顔や腕の部分を取り払ったところで、このマシンはまったく問題なく機能するだろう。ロボットといいつつも、このマシンをロボットに見せているパーツは完全なるハリボテである。


 その上でこの「チンタラ一世」は、わざとらしいほど粗雑なつくりをしている。

深沢幸雄の版画作品はユーモラスなモチーフを扱っているものもあるが、しかし基本的には技巧的で美しい。もちろん深沢は人形作家ではないが、そうだとしても、やろうと思えば「チンタラ一世」をある程度美しくつくることも可能だったはずである。少なくともこれほどめちゃくちゃなカカシのような仕上げにする必要はない。



 チンタラ一世の仕事である「目立て」とは、銅版のうえにインクをのせるための小さな捲れをつくる作業で、人の手でやれば非常に手間がかかるものなのだという。確かに思い返してみれば、よく知られたメゾチントの作品は、たいてい両の手のひらで包み込めそうなくらい小さい。目立てに時間がかかるため、一般には大ぶりの作品はつくりづらいのだろう。

また、凹みが浅いためメゾチントでは1枚の版から大量の作品を刷ることができず、比較的少ない枚数をプリントするだけで摩耗してしまうらしい。


 メゾチント作品の多くは図と地の色合いがぼくたちの見慣れている印刷物とは逆転しており、黒のほうが背景となり、そこに白い図像が細やかに現れる。階調表現にすぐれる、と言われるように、白黒のはっきりとしたほかの版画の技法に比べれば、格段に柔らかな表現が可能である。


 繊細で、柔らかで、暗くて、小さくて、量産できない。

それはたとえるならば十年に一度だけ真夜中に咲くちいさな花みたいに、どこか神秘的で儚げなイメージへと帰結する。メゾチントについて少なくともぼくはそのような印象を抱いていたし、たぶん多くのひともおよそ同じだろう。



「いやしかし」、とチンタラ一世ならば言うだろうか。


 人型である必要のないマシンを人型にしてしまうところには、なにか作家の躊躇いのような心理が働いているのかとぼくは訝っていた。作品制作の工程をらくらくと自動化して構わないのか、時間をかけて目立ての作業をおこなう過程を無視しても問題ないのか、と自問してしまう、ナイーブな躊躇い。


 でもたぶん、チンタラ一世は/深沢幸雄は、そんなことは一向に構わない、ときっぱり言い放つつもりなのだろう。

自動人形は、わざわざその表情を覗き込む者をあざわらうかのように適当きわまりない造形をしている。帽子の下に隠された両眼とこっそり視線を合わせてみようとしても、言うまでもなくそれは愚問だ、と虚ろなまなざしににべもなく跳ね返される。


「メゾチントだからといって、制作過程まで神秘的で儚げである必要があったかね?」


 実際のところ、メゾチントはかつて極めて実用的な銅版の技法であった。その後、近代的な印刷技術の発達により欧州ではひとたび廃れたが、パリで活躍した日本人版画家の長谷川潔がそれを復活させたことは知られている。メゾチントは(ほかの版画の技法と同様)印刷技術によってプラクティカルな領域から駆逐されて初めて、工芸ではなく芸術のための表現方法としての色を強めることになったのか。

メゾチントを含む各種の版画は、かつて情報伝達を目的とした印刷物として工房において組織的に制作されていた。チンタラ一世はそうした工房でちんたら働いていた、目立て作業くらいしかまともにできない職人のひとりだったのかもしれない。かれらの制作の、というか生産の日常は、間違いなく神秘性とは程遠いものだった。



 そういったことを考えているとつい忘れそうになるが、もちろん、チンタラ一世とは大ぶりのメゾチント版画を制作することを第一の目的としてつくられたものである。このおかしな顔をした人形は、当然ながら版画の制作過程を貧しくするものではなく、新しい制作へと繋がる思考のほうへと作家をいざなうものであっただろう。ちんたらとマシンを動かしながら、あのロボットは深沢幸雄の内面にふかぶかと入り込んでいたに違いない。


 作り出された人形のほうがむしろ自律的に、それを作り出した作家のほうを変容させていくこと。その逆転は一見奇妙なようでありながら、じつは非常にフェアな関係である。

 作家の意思だけでは制御できない何者かが作品の出来を左右するという感性は、たぶん(そこに明示的に対象を作り出していくような画家や彫刻家とは対照的に)版画や写真家において、より顕著に見受けられるものだと思う。なにかがそこに作られてしまう過程そのものを過剰に制御することなく、すんなりと受け容れ享楽しようとするその手つきのことが、自分はけっこう好きなのかもしれない。我が物顔で目立てマシンに手をかけるチンタラ一世に向き合いつつ、ぼくはふとそんなことを思いもしたのだった。

会場・会期

市原湖畔美術館 「2021年度第3回深沢幸雄/髙橋甲子男/鶴岡洋 版画」展

2021年10月2日から12月26日まで

・執筆者プロフィール

春原拓海

宮城県出身。メーカー勤務の会社員。学部では美術教育を学んでいました。