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東京国立近代美術館:協働することと映像を見ること(みなみしま)

「協働」と題されたセクションでは、様々な人々との協働を通じて、他者への理解を深めることがテーマに置かれている。絵画とインストラクションと映像(+インスタレーション)の全4点だけで構成される小さなセクションである。が、ここでは協働を共通のテーマとする作品が選ばれているだけではなく、展覧会を行う美術館全体の取り組みへの問題提起がなされているため、その射程はとても大きい。その取り組みとはこれまでろう者、中途失聴者、難聴者にとっては、鑑賞することが難しいものであった映像作品へのバリアフリー字幕や手話映像版の制作である。具体的には2020年に作家の全面協力のもとで制作された田中功起《ひとつの陶器を五人の陶芸家が作る(沈黙による試み)》「手話とバリアフリー字幕版」が本セクションの中心に据えられている。美術館にとって、協働とはまずもってともに見る機会を作り出すことから始まり、またそれ自体が十分に協働作業的なものであろう。ともに見ることの困難と可能性は、集まること/密集することが制限されたコロナ禍を経験して、なおのこと切実さをもってあらゆる人々に共有された問題でもあった。ともに見るというひとつの協働への新しい取り組みが始まった、ということが本セクションの何よりの存在意義である。


 さて、本セクションは一風変わった作品にはじまる。北脇昇が仲間の画家たちと共作した《鴨川風土記序説》である。1942年の制作とあることから、北脇の画業では図式的な絵画のひとつに位置づけられるだろうか。同じく東京国立近代美術館のコレクション室内で行われた小企画「北脇昇 一粒の種に宇宙を視る」展ではシュルレアリスム期から図式的な絵画への移行を転換ではなく、連続のなかで捉えるための視座が提示されていた。それは私たちの世界の背後にある不可視の法則を明らかにし、世界観のモデルを提示することであった。本作はどうだろう。解説文にしたがえば、シュルレアリスムが発明した複数人が制作したものを繋げてひとつの作品とする「優美な屍骸」を参照源としているようだ。モティーフとして選ばれた平安京は機能性よりも美観性を重視した都と言われているが、その優美さが変遷していく過程を一地図上の出来事として客観的に描写する視点は、優美な屍骸観察とでもいうべきだろうか。さながらハンス・ベルメールの球体人形の異名のようにも聞こえるこの遊戯的な制作手法を採っている点はシュルレアリスム的であるのだが、画面自体はおそらく彼の図式的な絵画の方法論で作られている。つまり、言い換えれば、制作の方法論がイメージの制作方法とそれらが組み合わされる画面の制作方法において、それぞれの別々の血筋をもっている点において、本作は一風変わって見えるのかもしれない。


 つづく高松次郎の「コピトピア」は「季刊フィルム」の1972年7月号に掲載された作品である。いくつかのインストラクションが印刷されたページが見開きで掲載されている。簡単にまとめれば、その内容は雑誌を見た人はそれを自由に複製してよいという内容である。高松のインストラクションの特徴は、紙を受け取ったあなたが他人に向けて何をしていいのかを記してある点にある。無限増殖の源であるがゆえに作家のオリジナリティを抹消し、匿名的な存在へとロマンティックに退却していくように思われて、高松がその始発点において期待していることがあるとすれば、それはあなたが別のあなたに働きかけることなのである。そのあなたは定義上、無限連鎖していくことが可能である。そうしてできあがる無名のネットワークこそ、理想的共同体であるユートピアを真似て命名された「コピトピア」が意味するところだろう。これは投壜通信に似ている。海に投げ込まれた瓶のなかには何かのメッセージが記された紙が入っている。いつの誰かに届くともしれない投壜的なコミュニケーションは、あらゆる時代にあらゆる人にそれを受け取る機会が開かれている。しかし、それは可能性であって、実際に具体的に誰か=あなたにまで届けられることが限りなくゼロに近い。投壜通信とはそのようなコミュニケーションの可能性と不可能性、徹底的な解放性と閉鎖性を兼ね備えたひとつの賭けの形式なのである。


 しかし、残念ながら私たちはもはやそうした賭けをしている豊かさを持ち合わせていない(それに加えて、高松のこの手の作品には同じ価値観を共有すると言われた分厚い中間層へと向けられた、一億総中流の時代の消費社会を生きるサラリーマン的な感性が漏れ見えたりはしないだろうか)。一体、私たちはだれと私たちという共通の主語を共有可能なのか、そもそも私はだれとどんな権利でもって協働することができるのか。その協働にはどれだけのサステナビリティがあるのか。これは美術に限らない社会全般において語られる、きわめて具体的な問題なのである。


 田中功起の《ひとつの陶器を五人の陶芸家が作る(沈黙による試み)》「手話とバリアフリー字幕版」は今日における他者との協働をテーマとして、その過程を撮った映像作品である。本作は様々な論点を含んでいるが、肝心の作陶の協働作業が参加者たちの疲労によって終わることやこの映像自体が険悪になりつつある参加者同士の会話をさえぎるために休憩を挟む瞬間で終わること(ひとりの参加者は喋り続けているのだが、音声は切られている)が象徴するように、疲労や休息といった無益の行いによって、協働作業がいったんの終わりを迎え、ある具体的な形をもった陶器が完成し、ひとつの映像作品となるというプロセスが重要だろう。というのも、向かい合うように展示された田中の既収作品《一つのプロジェクト、七つの箱と行為、美術館にて》(2012年)でも同じ問題を扱われているように見えるからだ。そこで繰り返されるのはそれ自体が目的化した、つまり無益な運搬行いとその映像のループである。一見してコミカルな運搬とシリアスな作陶の映像のより重大に思われる差異は疲労による休止が映像のなかに収められているか否かだろう。運搬では2人の男は汗をかいて運搬作業に精を出していることからを明らかなとおり、休止を許さないストイックさがある。この映像がコミカルに映るのはその不釣り合いな無益さとストイックさのバランスが理由である。人物の登場しない田中の初期作品である複数のループ映像においては、よりストイックにこのストイックさが強調されていると思う(極度な短尺は過去-未来という時制を抹消させる記憶喪失者として現代の観客を位置付けることに結果的に成功している。この記憶喪失はあらゆる知覚に基づく記憶を断片化することで、あるまとまりをもったストーリーを保持することをきわめて困難にする。昨今、ジョナサン・クレーリーが『24/7』で警告を鳴らすアテンションエコノミーの徹底による不眠社会の到来がもたらす知覚の破壊は共同体を夢見る権利のはく奪を意味している。田中の初期ル―プ映像から協働への変遷はこうしたストーリーに併走しているようにも映る)。けれど、作陶では休止を映像内に許すからこそそこに協働作業らしきものを見る者が感じ取ることができる。つまり、ここでは休止は映像の終わりを意味していないのだ。現に作陶を終えた後に参加者は雑談を続け、最後に休憩をしましょうという実質的な映像の終わりを示す場面においても、一人の参加者は喋り続ける、つまりまだ続くという演出で映像が締められている。


 発せされ続ける言葉に手話もまた無言を貫いている。「休憩しましょう」という言葉が際立って聞こえるのは、その映像を美術館の展示室のなかで立ったり、座ったりしながら、それなりに長時間見ている、私たちの状況へと向けられた励ましにも思えるからだ。ボリス・グロイスを引くまでもなく、多くの人が感じるように美術館で展示される映像作品は映画館のそれとは決定的に異なる。美術館の映像を見る経験はその作品の質に関係なく、無益な感をぬぐい難く有しているのだ。美術館における、協働とは何よりもまずともに見ることにあった。絵画や彫刻や写真などに比べて、展示室におかれた映像の宿命として、見知らぬ誰かとともに見られることは無益な時間の共有を意味するのかもしれない。しかし、それは決して無意味ではないはずだ。作陶の参加者にとって、あの作品への参加が無意味でなかったとするならば。無益な時間はともに見る協働のためにきっと重要なものなのである。

 

会場・会期

東京国立近代美術館 「MOMATコレクション」展

2021年10月5日から2022年2月13日まで

 

・執筆者プロフィール

みなみしま

南島興。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了(西洋美術史)。これぽーと主宰。美術手帖、アートコレクターズ、文春オンラインなどに寄稿。旅する批評誌「LOCUST」編集部。https://twitter.com/muik99