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  • 執筆者の写真これぽーと

東京都現代美術館:収蔵庫を上演する——マーク・マンダース「保管と展示」のまどろみ(に見える何か)について(河野咲子)

01. たぬき寝入り


 ここでは作品が安らっている——ように見えてしまう。緊張をほどき、ひんやりとした床になにもかもがのびのびと寝そべっているかのように。わたしたちには気付きもしないで、あるいはお構いなしに、ゆったりと閉じた時空をくつろいでいるかのように。

 何度か見たことのある作品ばかりだったから、なかば冗談めかして「ひさしぶり」——と声をかけてしまいたくもなる。


「特別展示:マーク・マンダース 保管と展示」展示風景、《4つの黄色い縦のコンポジション》2017–2019年 Courtesy of Zeno X Gallery, Antwerp, Tanya Bonakdar Gallery, New York and Gallery Koyanagi, Tokyo    


 もうすっかり見慣れてしまった、灰色の柔らかそうな彫刻群。ぜんぜん変わりないような気もするけれど、でもいつもよりほんの少しだけ顔色がいいんじゃない?

 細部にわたって構成の尽くされたマンダースの企画展では、目を伏せた彫刻たちはいつもうっすらとした緊張をまとっていた。でも、どうやら「保管」されているらしいのだという今回の展示のかれらは、薄い寝息をふわりと立てている。白く静謐な展示室で、終わらない午睡をうっとりとまどろんでいる。


 けれどもそんなはずはない。展示室で作品が眠ることなどありえない。それなのに——だとしたら——この空間では、いったい何が起きているのだろう。



02. なりゆき


「特別展示:マーク・マンダース 保管と展示」展示風景


 東京都現代美術館で開催中の展示「マーク・マンダース 保管と展示」——これは、コレクション展「Journals 日々、記す」のなかに折り込まれた「特別展示」である、ということになっている。


この度の「保管と展示」は、企画展「マーク・マンダースの不在」(2021年3月-6月)がコロナ禍により期間を短縮されたことを受けて特別に計画されたもので、作家にとっても例のない試みとなります。個々の作品を互いに張りつめた関係性のもと「一つのセンテンス」として構成した企画展とは異なり、本展示では同じ作品を用いながら、それらがばらばらに、しかし緩やかにまとまっている状態で配されます。(*1)

(コレクション展パンフレットより)


 感染症のせいで企画展「マーク・マンダースの不在」の会期が短くなってしまったから、代わりといってはなんだけれど、同じ作品群をこんどはコレクション展の空間でなかば「保管」しながら「展示」してみましょう。

 この展示はある意味では偶発的で、自然ななりゆきで提案されたように読み取れる。


 感染症流行に由来する会期変更についてあらかじめ予想して利用することなどだれにもできないのだから、「作家にとっても例のない試みとなります」というパンフレットの説明はたしかに正しいに違いない。

 他方で、マンダースがこれまでに立ち上げてきた空間の作用に照らしてみれば、今回の「保管と展示」は、彼においてとりわけ異質な・例外的な試みであったわけではないのだ、と言ってみることもできる。

 むしろパンデミックの情勢、そして美術館におけるコレクション展示のまとう文脈に便乗することで、よりいっそう巧妙なマンダース的企てが成功していたのだとしたら。



03. 言い回し


 直近に見られたマンダースの大規模な国内展示といえば、ミヒャエル・ボレマンスとの二人展「ダブル・サイレンス」(金沢21世紀美術館/企画展)、それからこの特別展示「保管と展示」に先んじて行われた個展「マーク・マンダースの不在」(東京都現代美術館/企画展)。


 金沢21世紀美術館の「ダブル・サイレンス」展はたしかにサイレンス=沈黙と名付けられてはいるけれど、ボレマンスは主に絵画を描き、マンダースは彫刻をつくっているのだから、作品が音をたてずに沈黙しているのは当たり前のことである。

 それなのに沈黙なのだ——と言い張られてしまうので、わたしたちは耳をそばだててなにかを聴取しようと試みては、やはりそこが無音であるということを確かめることになる。


 戸惑いのなかで、わたしたちはすでに鳴り終えてしまった音、ほんとうは鳴っているはずの音、いつか鳴るかもしれない音までもを感取しようと試みる。聞こえないものをめぐる感覚はいま・ここを離れ、ほうぼうに拡張される。

 そのように外部を満たすさざめきのなかに、作家・マンダースのかつて立てていた物音も含まれていただろう。それはへらが粘土らしきものを撫でる音、あるいは美術館に搬入される作品のがたごと鳴る音かもしれなかった——そんな音は、もはやどこからも聞こえはしないのだけれど。


 後続しておこなわれた東京都現代美術館での個展「マーク・マンダースの不在」においては、その謎めいた標題が示すように作家が自身の「不在」をよそおう素振りはいっそう顕著である。

 そこはマーク・マンダースの個展なのだから、作家なき作品——なんてもちろん見られるはずがないのに。


 だからこそ、強弁された不在をなぞるのは愉しい。レトリックの手口は「ダブル・サイレンス」のときとよく似ている。あの場所で沈黙がむしろ声を誘い出したのと同様に、「マーク・マンダースの不在」では敢えて強調された作家の不在こそがつくりこまれた作家の気配を巧みに引き寄せる。

 そうして、わたしたちはマーク・マンダースの所在を嬉々として探し始める。



04. 絵空事


 その場を立ち去ってしまった作家は、いったいどこに身をひそめているのか。

 マンダースの展示空間は、作家のスタジオのようなものを模している。半透明のビニールで仕切られた空間に、つくりかけのようにも見える彫刻がゆったりと並べられている(粘土を思わせる質感だが、じつはブロンズや樹脂製の彫刻に灰色の塗料をかさねたものであるのだという)。


「マーク・マンダース —マーク・マンダースの不在」展示風景、《乾いた土の頭部》2015–2016年 Courtesy of Zeno X Gallery, Antwerp


 さっきまで作家がなにかを作っていたのに、ふと立ち去ったばかりの空間にたまたま居合わせてしまったような演劇的感覚にふと襲われる瞬間があるだろう。

 マンダース自身のもののように見える衣服が、ふわりと畳まれて床に置いてあることにもすぐに気がつく。一日の終わりに服を着替えてベッドにもぐりこんだ作家が、そのまますっと暗い眠りの中に消えてしまったあとであるかのようだった。


「マーク・マンダース —マーク・マンダースの不在」展示風景


 マンダースはこの空間にいないのに、すでになにかを演じ始めている。わたしたちがそのことを了解するとき、空間の虚構性のみならず、作品そのものに埋め込まれた多層的な嘘をうけとめる準備もできていた。

 あまり深入りはせずに(この文章では企画展ではなく、コレクション展について話そうとしているのだから——)作家自身による文章を引用しておく。


マーク・マンダースは1986年以降、自画像の中に住み続けてきた。この建物はいつでも拡がり、あるいは縮むことができる。この建物の中では、人類の作り出したすべての言葉にいつでも手が届く。(*2)


アーティストとして私は、植物あるいはコンピューターと同じように、美しいものを作りたい。私の場合には、それは大きな建物の形をとった架空の人物である。(*3)

(「マーク・マンダースの不在」図録より)


「マーク・マンダース —マーク・マンダースの不在」展示風景、《調査のための居住(2007年8月15日)》2005-2007年 Courtesy of Zeno X Gallery, Antwerp


 作家なき空間の作品群は、作家の自画像でありつつ同時に架空の人物/大きな建物でもあるようななにかであれ——と作家によって願われ、現にその狙いをみごとに受肉させるかたちで展示空間にあらわれる。


 作品と空間の構築をつうじて、マンダースはもうひとりの架空のマンダースのすがたを入念に作りあげ、その上演の手筈をたんたんと整える。そして自分自身は黒装束の裏方のように静まり返り、なまなましい作家の存在をひっそりと消尽させようと試みる。


「マーク・マンダース —マーク・マンダースの不在」展示風景、《椅子の上の乾いた像》2011–2015年 東京都現代美術館蔵 Courtesy of Zeno X Gallery, Antwerp, Tanya Bonakdar Gallery, New York and Gallery Koyanagi, Tokyo



05. よみびとしらず


 展示室をめぐりつつマンダースの「不在」を発見していくことは、それ自体まるでかくれんぼを遊んでいるかのように愉しい。

 しかしそれはそれとして、美術作家の固有の名のもとで、作家の不在が強烈に願われているという事態が意味することはなんだろう。


 そのことを考えるとき、〈よみびとしらず〉といううっとりとした言葉がふと思い出される。よく知られている通り、作者不詳とされる古代の和歌には、作者の名の代わりに〈よみびとしらず〉の表現が付記される。

 もちろん、文字通り作者が知られていないというだけで、作者がほんとうに存在しないわけではない。にもかかわらず、それは誇らかに名前の添えられた和歌とは異なる魅力的な翳りをおびている。


 作り手の名前だけが失われ、それでも作られたものは永続しているという状況には、たしかに強かな甘美さがある。そのとき作品は名を失ったというよりも、むしろ固有名をはるか超え出てしまったと言うべきなのだろう。


 〈よみびとしらず〉の和歌にふれるときの高揚は、考古学の営みのはらむ神秘性にもどこか通じる。大きな建物の遺構に眠る古文書には、読みかたのわからない文字が遠い死者の骨のようにそっと埋め込まれている。それを掘り当てた考古学者は、名もなきだれかがいかなる生を生きていたのかを夢中で沈思するだろう。

 つぎはぎの出土品にささえられた想像上の過去が、地層の奥深くに立ち上がる。一度は忘却された太古の歴史は、そのようにしてふたたび語られ始める。


 作家の存在を消尽し、そしてその面影をあらたな虚構として再構築すべしという作品の運動を支えているのは、歴史的な物語のなかに作品をすっかり溶け込ませてしまいたいという控えめなロマンティシズムでもあるに違いない。それはかなり込み入った願いであるし、しかもマンダースにおいてはきわめてスマートに達成されるので、自己神話化——と言い切ってしまうには上品すぎる。



06. メタゲーム


 少なくとも建前上は、美術館のコレクションは歴史化されていて然るべきなのだろう。美術館が収蔵作品を増やすとき美術史の物語が参照されないはずがないのだし、公立の美術館には正統な歴史をなぞる役割が期待されているように思われる。あるいは収蔵作品のなかから一部を選り出してひとつのコレクション展を編もうとするときには、ひと連なりの語りを作り出そうとする力学がはたらくに違いない。

 コレクション展を訪れる人の多くは、作品の収集にかかわる美術館の公共的・権威的な機能をなかば信じているはずだと思う。なんらかの専門性や正しさに裏打ちされていて、ともすれば無味乾燥かもしれない静謐な物語が、そこにはたんたんと紹介されているはずであろうと。


 企画展とは見せ物として企画されたものなのだから、最初から嘘=演出されたものであることを知ってひとびとはそこに足を踏み入れる。

 「マーク・マンダースの不在」の展示を見るとき、まさかほんとうにマーク・マンダースなる人物が存在しないと一瞬でも思うひとはいない。

 かくれんぼを遊ぶとき、ほんとうにみんなが消えてしまったのだとは思わないのと同様に。探すのはひとつの遊びに過ぎないのだから、不在のせいでさみしくなったりはしない。あの子の姿は見えないけれど、ゲームが終わればまた会えるのだと分かっている。


 けれども「保管と展示」では、ほんとうに作品が保管され、眠っているように見えてしまうのだった。実はそうではない、ということに気づくまで一定の時間がかかる。


「特別展示:マーク・マンダース 保管と展示」展示風景


 なぜなら——その展示は、保管とコレクションに関わる美術館の制度イメージ、それにパンデミックをめぐる時事的状況を巻き込んだささやかなメタゲームになっているから。


 パンデミックはこの展示を偶然成立したかのように見せかける。事実ある程度はそうなのだとしても、結果として、そこに作家の作為があまり入り込んでいないかのような印象にまで帰結する。ただなりゆきで、ほとんど事務的に、前の企画を少し変奏してみせただけの展示にすぎないのだと。

 感染症は、国境封鎖や行き場のなさを想起させもする。これまで夏が来るたびに海外に出かけていた軽薄なわたしたちも、ここ数年は小さな島の小さな大都市に押し込められている。作品たちも同様に、つまらない足止めをくらってしまったのではないか。

 立ち往生した彫刻がここに仕方なく「保管」されている。そのついでに作品を見せてもらっているだけなのかもしれない。


 いや、それよりもずっと決定的なのは、この「特別展示」がコレクション展の内部の空間にするりとまぎれこんでいる点だろう。

 コレクション展の背後にいるはずの者としてわたしたちが真っ先に想像するのは、もちろん作家ではない。それを成立させるのは作品および学芸員によって綴られた言葉であり、そこに生きた作家が介在することはあまりなさそうだと思い込んでいる(実際のプロセスについては知るよしもない)。

 死せる作品と冷ややかな学芸員のための静的な空間。コレクション展は、ともすれば地下深くの閉架書庫からひっぱりだされたばかりの分厚い美術辞典のようなものとして、少なくとも理念的には想像されうる。


 保管=storageとは、作品を収蔵=storageする美術館の機能をそのままに指している。「保管と展示」は、あまり目立たない美術館業務であるところの収蔵・保管を、ほんとうの現代美術館のなかの、それもスペクタクルめいた企画展ではない場で真似してみせることで危ういリアリティを獲得する。

 「マーク・マンダースの不在」の展示は作家のスタジオのふりをしていたけれど、「保管と展示」のそれは美術館の収蔵庫のふりをしていたのだった。


「特別展示:マーク・マンダース 保管と展示」展示風景


 そのようにして空間の虚構は、展示室の外側の文脈までもを取り込みながら高度化し、いっそう強固かつ巧妙に上演される。

 だがこれはあくまで保管をよそおった展示であり、この展示にクレジットされているのはじつのところ(美術館/学芸員ではなく)マーク・マンダース当人である。


 作品は、それでも眠りこんでいるように見える。そのとき香りたつ〈よみびとしらず〉の甘やかさは、虚構だとわかりきったうえで楽しむ「不在」とは一線を画した臨場感とともにわたしたちを誘惑する。

 そうして灰色の彫刻は、マンダースの手をついに離れていく(ように見える)。美術館のコレクション=公共的な美術史の語りによろこんで巻き込まれ、作家の作為から遠ざかりそして超え出ようとする。作家亡きあとの作品の望まれた行く末を、みずから朗らかに予言しているようでもある。


 わたしたちはあの空間でかりそめの考古学者のように心を踊らせて、強く夢見られた未来の収蔵庫にひとときばかり立ち入っていたのかもしれなかった。


「特別展示:マーク・マンダース 保管と展示」展示風景、《椅子の上の乾いた像》2011–2015年 東京都現代美術館蔵 Courtesy of Zeno X Gallery, Antwerp, Tanya Bonakdar Gallery, New York and Gallery Koyanagi, Tokyo


・引用

*1 MOTコレクション「Journals 日々、記す / 特別展示:マーク・マンダース 保管と展示」パンフレット(東京都現代美術館、2021年)最終閲覧日2021年9月19日

*2 マーク・マンダース「マーク・マンダースの不在」p.4(マーク・マンダース『マーク・マンダースの不在』(HeHe、2021年))

*3 マーク・マンダース「メモ書き」、p.6(同上)


・画像クレジット

*「マーク・マンダース —マーク・マンダースの不在」展示風景、東京都現代美術館、2021年/Photo: Tomoki Imai

*「特別展示:マーク・マンダース 保管と展示」展示風景、東京都現代美術館、2021年/Photo: Masaru Yanagiba

※サムネイル画像は「特別展示:マーク・マンダース 保管と展示」展示風景

《4つの黄色い縦のコンポジション》2017–2019年 Courtesy of Zeno X Gallery, Antwerp, Tanya Bonakdar Gallery, New York and Gallery Koyanagi, Tokyo

 

・会場・会期

東京都現代美術館

MOTコレクション

2021年7月17日(土)- 2021年10月17日(日)

 

・執筆者プロフィール

河野咲子(かわのさきこ)

フィクション、短詩、批評などに興味を持ちつつ、小説をはじめとしていろいろなテキストを書いています。




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