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  • 執筆者の写真これぽーと

群馬県立近代美術館:境界線をまたぐ(本橋奈々実)

 企画展かと思ったら、常設展だった。常設展かと思ったら、企画展だった。そんな勘違いはよくあることだろうか?


群馬県立近代美術館で開催されている「日本と西洋の近代美術Ⅱ」は、動線づくりとその作品選定によって、コレクション展の枠組みを越えて、企画展とともに1つのストーリーを紡ぐ展覧会であった。


 コレクション展は、日本と西洋の近代絵画を対比させた「日本近代〈絵画〉」、「西洋近代〈絵画〉」、「西洋近代〈彫刻〉」、群馬にゆかりのある作家の紹介をする「群馬の作家」、≪ゲルニカ・タピスリー≫を中心に人々の争いに関する作品を展示した「ピカソと福沢一郎と鶴岡政男」、この3つのセクションから構成されている。


 はじめに種明かしをすれば、新型コロナウイルス感染拡大による会期変更のために、普段はコレクション展が開催される二階で、1つの企画展が開催されていたために、私は二つの展示を自然と周回することになったのだ。勘違いはここから生まれた。とはいえ、これは単なる物理的な行き来を意味していない。鑑賞していくにつれて、私は展示の線引きをまたぐ作品相互の呼応関係にも気づいていったのだから。


たとえば、それは山口薫、南城一夫の風景画、湯浅一郎の女性像など、群馬県にゆかりの作家たちの作品に顕著である。本稿では、とりわけ福沢一郎の絵画に着目してみたい。


 福沢の作品の特徴はそのユーモラスさにある。「ピカソと福沢一郎と鶴岡政男」に出展された≪トイレットペーパー・地獄≫は、その最たる例だ。『神曲』の地獄篇を思わせる主題を下敷きにしながら、本作ではオイルショックによって起きたトイレットペーパーの買い占め騒動が描かれている。画面は、左から右に向かって、大勢の人々が必死にトイレットペーパーを得ようと押し寄せている。腰蓑をつける者もいるが、ほとんどは裸体で、羞恥心を失っているようだ。彼らは赤地に黒の輪郭線で、さらに画面の奥にいくにつれて黒の小さな丸だけで表されるようになることで、あたかも描く価値すらない存在と切り捨てられているかのようだ。


 去年であれば、私たちはこの絵を笑って見られただろう。こんなにも文字通り、歴史は繰り返される。福沢のユーモアは、集団的な不安や恐怖に取り憑かれた我々のいまに響くのだ。


それでは、そうした福沢の絵画はコレクション展と企画展をまたいで、いかに呼応していたのか?ちょうど≪トイレットペーパー・地獄≫と向かい合って展示された≪敗戦群像≫から見ていくことにしよう。


本作では荒野を背景にして複雑に折り重なる人体が荒々しく描かれている。敗戦の虚しさは伝えるかのように、彼らは裸で自らが何者かであるかを表す顔も示されていない。このユーモラスにさえ映る描写の一方で、本作は赤い肌に所々見える筋肉の隆起や互いの腕や足をがっしりと掴んだり、手や足を地につけて踏ん張ったりしている様子は、鑑賞者に力強いエネルギーの所在を明らかにしてもいる。


 ≪敗戦群像≫は、ダンテ『神曲』に影響を受けた連作の一つだが、同じように連作に含まれる作品が、企画展「catch the eyes ―目から心へ―」にも出展されている。


 それは不安や恐怖を感じさせる作品として選定された《氷に閉ざされた亡者たち≫である。本作では、グレーを背景とした氷と化した青白い人々が弱々しく描かれており、死者でできた氷山の周辺にも、数人の亡者を背景に溶け込んでいくように見て取れる。


 一見して、本作における三角形に折り重なるように積み重なる死者の描写や、顔のない肉体だけの描写は《敗戦群像》と似通っている。けれど、対照的なのはその色彩選択である。

 はじめに≪敗戦群像≫を見たときには、そのタイトルの印象も相まって、単なる死体の山に見えていたものが、「赤」という色の持つエネルギーが解放されてゆくような印象によって、裸体の人間たちが絶望の中で見た一筋の光を感じ取れるようになったからだ。これは単体の作品だけを見ては気づけなかった特徴である。福沢は、同じような主題やモティーフを扱いながら、色彩を使い分けることで、絵画の印象と鑑賞者が受け取るその意味を変化させていたのだろう。


 こうした社会風刺的な具象画で知られる福沢のであるが、彼は抽象画も描いている。コレクション展では、彼の完全な抽象画である《創成》も展示されている。個人的な事情だが、パッと見て何が描いてあるか分からない作品を私は近寄り難く感じてしまい、さらに日本美術史を専攻する私にとって馴染みの薄いタイプの作品である。しかし、それでも企画展「絵画のミカタ」に出展中であった≪サヴァンナの彼方に≫と併せて見ることで、いくつかの理解の糸口を得ることができた。


 「絵画のミカタ」は5人の現代作家の作品と、彼らがコレクションの中から選んだ作品を共に展示するものである。画面から作者の動きを感じられる作品として出展されていた≪サヴァンナの彼方に≫は、赤を下地としてその上に人や馬の輪郭や顔を黒線で描いた作品だ。強烈な赤の発色からは酷く乾いて暑いサヴァンナの地が、そして躍動感のある黒の線からは、たくましく生きる馬と人の様子がありありと表現されている。赤と黒の中に点々と配された白や青、黄などの色は激しさを下支えする安定感を画面にもたらしている。人間や馬が描かれているとはいえ、それらは黒線で表されるだけである。だが、《サヴァンナの彼方に》そのものは色や線それ自体を強調してために、具象画でありながら抽象画である、その両義性を読み取れる作品である。


 翻って≪創成≫を見ると、初見では見過ごしていたいくつかの特徴が浮かび上がってきた。まずは彼のほかの作品とは異なり、表面に絵の具の盛り上がりがないこと。青、黄、緑の面が、筆の跡を一切残さないように、さらにカンヴァスの布目を完全に消すように塗られているのだ。その上には、描き始めも描き終わりも丸くなるように、いくつかの赤と黄色の線が描かれる。また滲んだ緑、赤の飛沫、素早く細く描いた渦巻などが散見される。≪創成≫というタイトルの通り、作者が苦心しながらも新たな表現を模索している様子が感じられる。


 《敗戦群像》と《氷に閉ざされた亡者たち》、《創成》と《サヴァンナの彼方に》。私は、それぞれ2つの作品を比べることで、色彩選択による演出、抽象画に潜んだ細やかな表現を発見することができた。それはコレクション展と企画展という2つの展覧会が、同じフロアで開催されていた偶然によるものだ。それがなければ、1つ1つの作品の細部へ、自分の目を深めることはできなかっただろう。展覧会をまたぎ見る視点によって、一つ一つの作品に一体、何が描かれているのかを知ることができたのだ。


 企画展かと思ったら、常設展だった。常設展かと思ったら、企画展だった。コレクション展と企画展はすでに呼応してしまっている。


もしかすれば、両者の展示の区別は美術館が要請する制度的なものに過ぎないのかもしれない。鑑賞者の目はそんなことはお構いなく、身軽に常設展と企画展を行き来してしまう。両者は必ずしも対立するものではないのだ。だからこそ、常設展も共に、美術館全体で1つの展示と捉えてみることで、作品の新たな見方や側面に気づくことができるはずだ。


 

群馬県立近代美術館「絵画のミカタ」

会期:2020年6月27日から8月23日まで

 

・執筆者

本橋奈々実

群馬県立女子大学3年生。日本美術史専攻。


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