※本稿を執筆中の3月16日深夜、最大震度6強の地震が起きたが、郡山市立美術館は3月19日より通常通り開館している。
1 ぐねぐね道をゆく
まだ雪の残る2月25日、わたしは郡山市立美術館を訪れていました。
美術館は駅からは離れた場所にあり、とちゅう「どん百姓」と看板がさげられた、ひしゃげた無人野菜販売店を横目にみながら曲がりくねった田舎道を車で向かいます。郡山は東北、福島のなかでは都会といえなくもない土地ですが、駅から10分も車で走ればこうした牧歌的な風景が広がっています。
車を停め外に出ると、まだつめたい風が吹き抜け、熊笹がこすれあう音がきこえます。駐車場が高い位置にあるので、まず初めに建物全体を見下ろすかたちになります。柳澤孝彦の初期の建築です。長いキャノピーが駐車場を降りる階段に向かって、すうと伸びています。鑑賞学習で来ていたのでしょうか、スマートフォンをカツカツ操作しながら「でも写真撮れなかったじゃんね」「あの(バリー・フラナガンの)ウサギの前で撮ってストーリーにあげる?」と話す地元の高校生らしき集団がもつれあうように歩いてきます。ちょうどこのときは「スイス プチ・パレ美術館」展が巡回していました。
中に入ると、壁の穴や汚れはすこしくたびれた印象をうけるものの、古っぽい施設に行ったときに感じる空気の淀みは少なく、抜けがあるように思えます。1階の企画展をみたあと、今回の目的の2階の常設室に向かいます。階段の木の床はバレエダンサーの練習室のようにつるつるしています。
2 収蔵方針と今期常設展のセクション構成(令和3年度第4期)
この美術館の所蔵の特徴は、イギリス美術、とりわけ水彩画を多く収蔵していることです。日本国内の作品についても、近代におけるイギリス美術の影響を意識し、水彩画やイギリス留学組のものが多く収蔵されています。この収蔵方針については、浅井忠の研究を行っていた、当時美術館準備室に着任し初代館長となった村田哲朗氏が具体化したとのこと。(*1)
水彩画は油絵に比すると簡潔だし、取材も容易で、素人の娯楽に適し、また小幅に収めることも易いので、自づから合ひやすく、いづれ日本は水彩画ばかりとなりませう。然し水彩画の流行は、一転して油絵の趣味を感受ず様になるので、今後建築物の変化と相待て、洋画も追々と盛んになるでございませう。━━━━浅井忠
洋画の草創期、資料の乏しいなかで学んでいた浅井は、高橋由一や山本芳翠らとともに日本初の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊したイギリス人報道画家C・ワーグマンのもとを訪れます。その後フォンタネージに師事し本格的な西洋美術を学んだ浅井らは、国粋主義の逆風のなか日本最初の美術団体である明治美術会を創設します。そこにはのちに春鳥会(現・美術出版社)をたちあげ『みづゑ』を創刊する大下藤次郎もいました。彼らはアルフレッド・イースト、ジョン・ヴァーレー、アルフレッド・パーソンズといった次々来日したイギリス人画家からさらに水彩の技法と視点を得て、その魅力を国内に広めていきます。
この近代の日英の交流を美術館は日本美術史のエアポケットととらえ、コレクションの軸を形成しています。今期は「1. イギリス近代美術」「2. 明治以降の日本近代美術」「3.今日の彫刻」「4.佐藤潤四郎のガラス工芸などの郡山市ゆかりの美術」「5.本(版)の美術」の5つで常設展が構成されていました。このレビューでは1と2を中心にみていきたいと思います。
3 英国水彩画、ピクチャレスク
展示室1に入るとまずアレクサンダー・カズンズ、ジョン・ヴァーレー、J・M・W・ターナー、ジョン・コンスタブルらの水彩画が眼に入ります。つぎに廃墟の描かれた油彩画、回遊して振り返るとジョシュア・レイノルズの巨大な《エグリントン伯爵夫人、ジェーンの肖像》がどんと現れます。ロイヤル・アカデミー初代校長のレイノルズの描く崇高美に圧をうけます。この作品周辺以外は、どれも似た構図で風景が描かれているようにみえます。
アレクサンダー・カズンズ《川岸に神殿のある風景》水彩・紙
ジョン・ヴァーレー《ポントシスリット・アクアダクト》1826年、水彩・紙
リチャード・ウィルソン《キケロの別荘》水彩・キャンバス
カズンズはポール・サンドゥビーと並んで英国水彩画の父と呼ばれる。リチャード・ウィルソンはロイヤル・アカデミーの創設メンバーのひとり。
18世紀半ば〜19世紀初めのイギリスでは大規模な大陸旅行のグランド・ツアーから国内の名所をめぐるピクチャレスク・ツアーがブームとなり、(ちょうど入り口ですれ違った高校生たちが写真に納める風景を探していたように)旅行者として「絵になる」風景を探勝することが当時の教養人のたしなみでした。同時期、産業革命による画材の改良に後押しされるかたちで水彩は急速に広まり、旅先でも使われ、1804年には水彩画協会が創設されます。
ピクチャレスク(picturesque)の美学のキーワードは「粗さ」「ごつごつ」であり、好まれるモチーフとして、しばしば廃墟や不規則な形の樹木が描かれます。ピクチャレスクの概念はウィリアム・ギルピンが書いた著書で知られるようになりますが、その後ユヴデイル・プライスらによって人為的に風景を改良するところまで進められます。
この特徴のある作品をみていくと、暗い前景には左右から伸びる岩や木があり、中景には湖や川、遠景には山や遺跡があります。人は生き物はほとんど地面のでこぼこに馴染み、かろうじてシルエットで判別できるようなかたちです。大きく伸びた樹木やひと気のない建造物は永い時間を感じさせます。プライスは本来規則的で美しいものも時間の経過で朽ち果てればピクチャレスクになると、「時間」を強調しています。
4 日本へ
先で触れたとおり水彩画は明治期に伝えられ、大下藤次郎が『水彩画の栞』という手引書を書き流行します。さらに1905年には『みづゑ』を創刊することでブームは後押しされ、1913年には日本水彩画会研究所が創立されてます。
今回の展示室2では鹿子木孟郎の《水車小屋》が唯一の水彩画として展示されていました。
鹿子木孟郎《水車小屋》水彩・紙
切り出してきたままの棒っこが組み合わさった水車小屋です。春霞のなかにまがりくねりながら伸び立つそれは頼りなさげなようでいて軽やかにもみえます。近づいてみるとホワイトで盛られているかと思った水しぶきは削られていることがわかります。「水車小屋」もまた、プライスらがピクチャレスクなものとしてあげていますが、こちらは展示室1でみたイギリスの作品たちのようにからりとしたかんじではなく、水に浸っている部分は藻でぬるついていそうな、軋んでいそうな、そんな湿度を感じます。粉を挽いたり水を汲み上げたり、生活の動力源になっていたのでしょうか。これを選ぶ鹿子木からは、旅行者的態度というよりは生活者としての態度を感じます。鹿子木は1900年にアメリカに渡り、満谷国四郎、河合新蔵、丸山晩霞、吉田博、中川八郎とともに日本人水彩画家6人展をボストンアートクラブで行い11日間で2万人ちかくが訪れる大盛況になったという、調べる中でびっくりした話があります。海の向こうからもたらされた可能性を試していく気概が感じられる話です。
そこから120年、いまでは水彩は小学校の図画工作でだれもが触れる画材になりました。水彩は顔料の粒子の重さでたまったり、するする流れたりしながら絶妙な表情をみせます。出先で(ぎりぎりファミレスでも)使えるこの画材を使って描かれた現代の作品もいろいろと浮かんできます。そのはじまりは風景とともにあり、風景の見方を変えたことをこの常設展では知ることができます。
1992年11月21日に開館した郡山市立美術館は今年で30周年を迎えます。コレクション展など、今後も引き続き注目したいです。
*
帰り道。車から眺める休耕地には太陽光パネルが置かれ、規則正しい矩形がななめに天を仰いでいます。街中にはぽつぽつとテナント募集の紙が目立ち、ひとけのなくなった土瀝青の亀裂からは草木がぼうぼう生えています。そういえば水車小屋はいつからなくなったんでしょう。
風景は変わりつづけます。時に強制的に。時にみえないものによって。
車に乗っているとついつい眼をとられます。
阿武隈川にかかる橋を渡ると、水がきらきらと輝いていました。
*1:鈴木誠一(前館長) 寄稿「美術作品の収蔵—郡山市立美術館の収蔵方針とコレクション形成」郡山市立美術館ニュース ザ・ループ
参考文献:
土方明司監修『水彩画 みづゑの魅力──明治から現代まで』青幻舎、2013
今村隆男『ピクチャレスクのエネルギー—プライス『ピクチャレスク論』を中心に—』
今村隆男『ポール・サンドゥビーの二つの風景』
出口雄大『水彩学』東京書籍、2007
※作品図版はすべて郡山市立美術館所蔵作品で、当館より提供。
会場・会期
郡山市立美術館「常設展2021年度第4期」
2022年2月11日から4月24日まで
・執筆者プロフィール
つちやじぇりこ
1993年生まれ。福島県南に在住し「枯家」の絵を描いたり、写真を撮ったりしている。近代洋画と今和次郎周辺に興味を持っている。
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