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  • 執筆者の写真これぽーと

原田マハ『常設展示室』:「なんで絵画が好きなの?」と聞かれたら、この本をおすすめしたい(しらたま)

 本を閉じた後もじわじわ広がる感動。『常設展示室』でも原田マハさんの魅力は健在だ。マハさん(好意を込めてこう呼ばせてほしい)の作品を読むと、冬の寒い日に、野外でホットドリンクを飲んで身体の芯から温まるような、そんな感動をいつもしてしまう。


 マハさんの作品には、映画化された『キネマの神様』(2011)や女性の2人旅をつづった『ハグとナガラ』(2020)の他、『楽園のカンヴァス』(2012)や『ジヴェルニーの食卓』(2015)といった美術を題材にした小説が多い。美術館勤務の経験があり、フリーのキュレーターとしても活躍されているマハさんならではの審美眼で、画家、絵の鑑賞者、学芸員やギャラリーのディレクターといった美術に関わる人たちの物語を私たちに見せてくれる。緊張感のある推理小説でもなく、一大スペクタクルの冒険小説でもない。悩んだり、悲しんだり、喜んだり、私たちも日常生活で感じたことのある感情が、丁寧に紡がれている。登場人物がまるで親しい友人のように感じられ、彼らとともに心が揺れ動いてしまう。


 『常設展示室』は、そんな「友人」たちの話を6人分味わえる短編集だ。ニューヨークで働く学芸員、アートディーラー、受付業務の派遣社員など、住む場所も仕事も年齢も違う「友人」が登場し、常設展示の絵画をキーに人生の転機を迎える。物語そのものだけでも楽しめるのだが、より深く楽しむのなら、ぜひキーとなる作品について調べてみてほしい。作品の特徴を知ることで、物語と作品がリンクし、より深い感動が味わえるはずだ。

 たとえば1作目「群青」では、ピカソの《盲人の食事》(1903年・メトロポリタン美術館蔵)が登場する。わたしはピカソの知識がないので、インターネットで「盲人の食事 ピカソ」と検索して、作品の画像やら、作品やピカソの解説やら、たくさんヒットした中から2、3のサイトを選んで読んでみた。すると、《盲人の食事》はピカソの「青の時代」とよばれる時期の作品であること、この時期の作品は、老人、女性、盲人、乞食といった当時の社会で弱者とみられていた人々を題材にして、憂鬱、貧困、孤独、病、死のような主題が描かれていること、作品全体が青や青緑の色調であること、また青色は伝統的な西洋絵画では神や高貴さを表わし、ピカソは青色を使うことで、憂鬱さや悲しみの中に気品や深い精神性を表わしていることが分かった。

調べてみて《盲人の食事》の青色は、小説のタイトルの「群青」、主人公の名前「美青」と共通していて、小説自体がピカソの青色のイメージをテーマにしていると気が付いた。小説では、視力を失いつつある弱視の少女が、それでもなお絵画への情熱を燃やし続けピカソの色を味わおうとする場面があるのだが、これはピカソが「青の時代」の作品で描いた主題と同じなのだ。一見悲しみや同情の対象と見えるものであっても、希望や可能性がそこにはある。そんな深い青、群青がこの小説で描かれていることだと知ると、小説と作品両方の理解が深まり、感動もひとしおになった。

 残念ながら、4作目「薔薇色の人生」で登場するゴッホの《ばら》(1889年・国立西洋美術館蔵)以外は国内の美術館には所蔵されていないので、昨今の情勢下では実物を直に目にすることはなかなか難しいだろう。しかし作品を思い浮かべて、「友人」たちのように自分も心を動かされるのか、自分だったら作品を前にどんな事を感じるのか想像を膨らませることが本の前にしてもできるはずだ。


 個人的には、登場人物が常設展示の絵画に出会い、感動するところが、この小説の好きなポイントだ。特別展とは異なり、その美術館の所蔵作品を見ることができて、いつでも開かれている展示室。そのような常設展示室に登場人物たちは訪れて、思いがけず作品と出会う。その時の彼らの感動する様子が、絵画のもつ魅力そのものなのだと思う。誰かに絵画を語るときは、基本的には、作品や画家の視覚的な特徴、また当時の社会の状況など美術史に関する知識を使って説明することが多い。これは客観的に作品を理解してもらうためには必要なことだ。それでも、知識だけでは絵画の魅力が十分に伝わると思えない。美術史の知識は、誰かと絵画というものを共有する1つの側面だからだ。私には、予備知識がなくても好きになった絵がある。訪れた展示室で思いがけない出会いを果たしたことが何度もある。絵画に惹かれる最初の瞬間というのは、言葉に言い表せない私だけの感動が誰しもあるのではないだろうか。そんな私=誰かの感動を、この本ではマハさんの描くさまざまな登場人物たちの視点を通して味わうことができるのだ。

 もし美術館に行ったことがない人がいたとして、その人に「なんで絵が好きなの?」と聞かれたら、私はこの本をおすすめしようと思っている。絵画を目の前にしたときの感動が濃縮されたこの短編集なら、これまで美術に縁がなかった人にも魅力が伝わると思えるからだ。

 

書籍情報

原田マハ『常設展示室―Permanent Collection―』新潮社、2018年

 

執筆者プロフィール

しらたま

栃木県出身の社会人。大学生の時に美術に魅了されて以来、美術館巡りが趣味となる。学芸員資格あり。西洋絵画中心に、特にフェルメール、クリムト、クレー、ミュシャが好き。美術好きの一般人として、美術の魅力を広げようと日々目論んでいる。。


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