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京都市京セラ美術館:朝靄のなかの兆し―三谷十糸子の「こどもへのまなざし」(森碧輝)

  • 執筆者の写真: これぽーと
    これぽーと
  • 6 分前
  • 読了時間: 5分

草むらの上で、ひとりの少女が身をかがめて虫を追っている。指先の動きには迷いがなく、ただその小さな世界の変化だけに集中している。隣では、もう一人の少女が捕まえたバッタを籠へ納めようとし、父親がそこに手を添えている。周囲には色とりどりの草花が咲き、朝靄の気配を含んだ空気が、画面全体に淡い光を落としている——三谷十糸子《朝》(1937)で描かれたその一瞬の光景は、日常的でありながらも、現実とは少し異なる静けさを宿していた。


三⾕⼗⽷⼦《朝》1937年 京都市美術館蔵
三⾕⼗⽷⼦《朝》1937年 京都市美術館蔵

京都市京セラ美術館で開催されていた「コレクションルーム秋期 特集『こどもへのまなざし』」は、同館の所蔵作品の中から、子どもをテーマにした作品を集めた展覧会である。


ただし本展の特徴は、子どもそのものよりも、「大人が子どもをどのように見てきたのか」という「まなざし」の在り方に焦点を当てている点にある。子どもは無垢な存在として描かれることもあれば、大人の理想や不安を投影する鏡として扱われることもある。広い意味で子ども像といえるこのイメージの蓄積が、どのように構築されてきたのか。展示室に並ぶ絵画や彫刻は、そうした問いの入口として配置されていた。


本展には多くの作家の作品が並び、テーマの広がりは必ずしもひとつの方向にまとまっているわけではない。むしろ作品同士の距離感の違いが、子どもという主題の複雑さを示しているようでもあった。その中で特に存在感を放っていたのが、三谷十糸子の作品群である。前期から後期までの八点がまとめて展示されており、彼女が長い時間をかけて子ども、特に少女というモチーフに向き合い続けたことが一望できる。展示全体のテーマを考えるうえでも、三谷作品は核となる性質を持っていると感じたため、ここでは彼女の絵に焦点を当てて考えてみたい。


三谷の前期作品には、淡い光や靄のような空気が画面をつつむ作品が多い。《朝》もその一つである。夏の柔らかな光のなかで、少女たちは感情を露わにすることなく、ただその場面に立ち会っている。その表情は、喜びとも緊張とも判断し難い。三谷は、子どもを「何かが起こる以前の状態」として描いているように見える。この「兆し」のような感覚は、彼女の他の前期作品でも共通している。《独楽》(1930)でじっと回転する独楽を見つめる少女の姿や、《蟻》(1938)で列をなす蟻を追う子どもの姿にも、同様の「兆し」が満ちていた。


三谷が少女をどのような存在として見ていたかが、パンフレットの記述からうかがえる。


「今正に開こうとしている花にも似た年頃の若い女の子と暮らし、その美しさに心引かれる時、私は美しい花園にいる思いが致しました。(中略)子供とか若者とか、伸び行くものに魅せられ、情熱が一番持てるものとなり、(中略)いつの間にか私の世界が出来てしまったような事になりました」


ここで語られているのは、少女を「正に開こうとしている」ものとして捉える視線である。三谷が見つめていたのは、明確な性格や感情を持たない、これからどのようにも変化しうる「兆し」のあるものだったのではないだろうか。少女を花にたとえる比喩は、対象をひとつの意味へと固定するのではなく、その手前にとどめようとする三谷の姿勢を示している。


この視点を踏まえて《朝》を改めて見ると、子ども以外の複数の要素が意味を帯びてくる。朝靄の柔らかな光につつまれた場面であること。感情を特定の方向へと導かない、抑制された表情が描かれていること。そして、彼らの肌に施された、黒と白のあいだを漂うような灰色の色彩。これらはいずれも、出来事が劇的なかたちを取る以前の「兆し」を象徴しているのではないか。


三谷の作品における「兆し」は、緊張や高揚としてではなく、むしろ静けさとして表れている。何かが起こりうるという感覚があるからこそ、画面には過剰な感情表現や物語的展開が与えられない。兆しが兆しのままで留められているために、動きよりも静止が、激しさよりも沈黙が前景化する。三谷の絵に漂う静けさは、何も起こらないから生まれているのではなく、まだ起こっていないからこそ成立しているのだ。


後期の作品である《棕櫚草の小径》(1978)や《月の出を待つ》(1982)においては、色彩は前期に比べて濃くなり、画面はより幻想的な様相を帯びていく。しかし少女というモチーフそのものが放棄されることはない。淡い光の気配は後景へと退き、構図や色調は変化していくが、少女を「何かを象徴する存在」として回収しきらない態度は保たれている。そこに見られるのは眼差しの単純な深化というよりも、同じ関心が時間のなかで姿を変えていく、その移ろいの過程である。


ここで注意しておきたいのは、「こどもへのまなざし」が孕む危うさである。三谷の作品に描かれているのは、現実の子どもそのものではない。それは、大人である画家が、子どもという存在に見出した予感や期待、あるいは自身の内側の感覚を写し出した像である。子どもは常に見られる存在であり、意味を与えられる存在でもある。本展が示しているのは、そうしたまなざしの豊かさと同時に、その不可避的な暴力性でもある。


「こどもへのまなざし」を主題とする本展は、子ども像の変遷を語るというよりも、むしろ大人がどのような視線で世界を切り取ってきたのかを浮かび上がらせている。灰色の肌をもつ少女たちは、無垢と成熟の間にいて、明確な物語の主体にならない。これまで書いてきたこと、書き切れなかったこと、その両方を引き受けるようにして、彼女たちは画面の中に立っている。意味が定まる前の時間に留まりながら、こちらのまなざしを受け止める存在として。

会場・会期

京都市京セラ美術館 本館

2025年10月24日から12月14日まで

・執筆者プロフィール

森碧輝

2002年生まれ。京都大学工学部理工化学科在籍中。 コミュニティ「ヤドリギ」主宰、ならびにそこで発行している文芸誌の編集長。 境界にあるものや、それらを編集/キュレーションする方法に関心を持ち、文章表現・写真・雑誌制作など多様なメディアを用いて研究・実践を行っている。大学院では芸術学系に転向し、20世紀の前衛美術や、松岡正剛の編集した雑誌『遊』を中心に研究予定。

 
 
 
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