千葉市美術館コレクション選「密やかに在る」:展示室に在るもの(貝保絢音)
- これぽーと
- 10 時間前
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千葉市美術館
2026年6月2日から7月5日まで
貝保絢音
千葉県出身。東京大学大学院教育学研究科在籍。学校における美術科教育や美術館におけるラーニング・プログラムを研究している。特に、当事者が数値化できない価値だと感じている部分を、どのように記述し社会と共有できるかに関心を持っている。現代アートが好き。

千葉市美術館は「千葉市を中心とした房総ゆかりの作品」、「近世から近代の日本絵画と版画」、「1945年以降の現代美術」の3つを収集方針としている。コレクション選の第一室では「千葉市を中心とした房総ゆかりの作品」と「近世から近代の日本絵画と版画」に関する作品を、第二室では「1945年以降の現代美術」に関する作品を扱っており、今回はそれぞれ『密やかに在る―近現代の所蔵作品から』、『密やかな線』という特集のもと展示が組まれている。
密やかという語を辞書で引くと「ひっそりとしているさま」、「人に知られないようにそっと行うさま」、「ものの乏しいさま」とある1。密やかな存在は、気がつくことが難しいから密やかなのである。その有りようは展覧会とは相容れないものに思えるが、本展は、どうやって密やかさを見せるのだろうか。
1:暗闇の感触をつかむ
まず『密やかに在る―近現代の所蔵作品から』では、正面に掌ほどの大きさの版画が出迎える。小さく暗い画面の中、微かに何かが描かれていることがわかる。
これらはパリで制作を続けた銅版画家である浜口陽三のカラーメゾチントの作品。メゾチントとは、ロッカーという歯のついた道具で銅板をヤスリ目のように埋め、黒い面をつくってから、白くしたい部分を削り取っていく版画の技法である2。
画面に目を近づけると、暗闇の中にぶどうや毛糸、てんとう虫などが描かれていることがわかってくる。さらにその表面の質感に着目すると、画面全体に黒いヴェールがかかっているような層の存在に気がつく。
これはメゾチントであれば全てこうなるというものではなく、ロッカーのかけ具合、歯の種類、ロッカーをかける際の圧力などの効果によるものである3。浜口の造形的な探求の末に生まれたこのマチエールによって、モチーフが暗闇にひっそりと在るように感じられる。
画面の大きさもその内部の描き込みも密やかであるがゆえに、画面をじっと見つめないと見えてこないことが多い。しかしその密やかさに触れる経験は、私の心にほのかな暖かさをもたらしてくれるものであった。
具体的な作品を一つあげてみたい。暗闇の中に赤いさくらんぼが一つ描かれている。これは《ロビーナのさくらんぼ》という作品だが、本作ではヴェールというより、粒だった点々の表現が目に止まる。まるで光の粒が集まってさくらんぼの形を成しているようだ。
確かに私はいまそれをさくらんぼだと認識しているが、この光の粒がバラバラと動き出してしまえば、目の前にあるそれは闇の中に消えてしまう。その存在の不確かさを密やかさと言い直せるかもしれない。本作はメゾチントの技法を見事に使いながら、こうした不思議な感覚を与える作品だった。
同じく浜口陽三の《青い蝶》は、その作品名を見てやっと蝶がいることを認識できるほど暗い画面の作品である。あまりにも見えづらいため、さっきもしたように体が自然と近づいて見たり離れて見たり、横から見てみたり下から見てみたりと試行錯誤を始める。
そうして気がついたことだが、下から覗き込むように見ると、画面が光を受けてモチーフがはっきりと見えるようになるとともに、沈み込んでいた色が浮かび上がってくるのである。正面から見るだけでは、黒い背景に薄い横線があり、その中心に蝶がいるということしか見えない。だが覗き込むことによって、羽の先にかけて青くグラデーションになっている黄色い体の蝶が、赤や黄色や緑の線の上にいるように見えてくるのである。
さらに幼稚園児の背と同じくらいまで目線を下げてみると、今度は黄色い線が山並みで、緑や青の線は朝焼け、そして蝶の羽はその朝焼けの光を反射して輝いているように思えてくるのだ。
展示室に足を踏み入れた時には、作品の小ささや画面の暗さが密やかさなのだと受け取っていた。しかし、暗闇の中に茫洋たる山並みを見る中で、ここで見せられている密やかさとはそのような単純なものだけではなく、文字通り陰影に富んだものなのだということに気付かされた。
その後も、エッチングで細やかに描きこまれた清原啓子の《鳥の目レンズ》や、藤森静雄の日常への静かな眼差しが感じられる木版画などを見て、第一室を終えた。
2:密やかさが生まれる
続いて特集「密やかな線」を見ていく。作家としては、浅野弥衛、狗巻賢二、沢居曜子、内藤礼の作品が展示されている。
一見すると、大型の作品が並び、密やかというテーマとは相容れないように思える。実際、第一室の浜口の作品などと比較した時、見開きの新聞紙よりも大きい絵画を密やかさという点からどう考れば良いのか、一瞬戸惑ってしまう。
しかし、一点目の浅野の絵画とじっくり向き合っているうちに、浜口との共通点が浮かび上がってきた。
浅野特有の技法である”ひっかき”は、まずキャンバス一面に絵の具を塗り、ほどよい乾き具合になったら小刀、釘、錐、鉄筆、針などで絵の具を引っ掻く。そこに黒の絵の具を塗りこみ、柔らかい布でぬぐうと、引っ掻いた溝に絵の具が残り、黒い線が生まれるというものだ4。これは、細かな線を描き色を塗り重ねるという点で、作者の身体的な行為としては浜口による版画の制作過程と似ているものである。
画面の大きさからすれば全く異なる作家に見えるかもしれないが、画面と向き合い、細かな線を一本一本引いていき、それがどう現れるか注視しながら色を重ねていく際の作者の息遣いを想像すると、共通する密やかなものを感じるのである。
そうして作者の息遣いや線の持つ緊張感を感じながら、最後に目前に現れるのが内藤礼の《namenlos/Licht》だ。
本作は、一見何も描かれていない紙のようだが、近づいてみると微かにピンク色の色鉛筆が塗られている。そのピンクの存在はあまりに些細で、展示の締めくくりとしては、ひとによっては味気なさも感じるだろう。しかしキャプションに記された文章から、この展示の意図を伝えられたような気持ちになったのである。
「ドイツ語で『namenlos』は『無名の』、『Licht』』は『光』を意味します。科学的に、色は光の反射によって認識されるため、光がなければ色は生まれません。色とは光であり、すなわち本作は、光そのものをとらえようとしているのです。本特集のテーマである線も、線である前に色であるとも言えます。作品を作品たらしめる要素は、素材や技法にかぎらず、作品の外、つまりこの世界のそこかしこに存在しています。」5
内藤礼は、そしてこの場所に本作を配置したキュレーターは光、つまり作品そのものだけでなく、作品のある世界の存在に鑑賞者が意識を向けることを求めているのである。
千葉市美術館のコレクション展示室は入り口と出口が同じ場にあるので、第二室を見終えた後、展示室を出ずにもう一度、第一室へ行くことができる。内藤の作品を見終えた私は、そのまま第一室にある浜口の作品のもとへと戻った。
先ほどは「密やか」という言葉に導かれるように、作品に近づき、絵の中に入ろうとしていた。それは画面の中にひっそりと在るものに気がつく方法ではあったかもしれないが、それを密やかたらしめているものを見てはいなかった。その絵の中にぼんやりと浮かぶように在るモチーフや、色鮮やかに広がる風景を発見するための条件、すなわち光の存在に気づいていなかった。その光はどこから来るのか。
それは、いうまでもなく絵の外からである。光が絵に到来し、反射することで、私は浜口の暗闇を見ることができるのだ。改めて浜口の作品と向き合うと、暗く見えていた画面が周囲の光を受け、塗り重ねられた色や、細かなテクスチャーを見せてくれていることに気がつく。見る角度によって光と画面の関係性も変化し、作品が表情を変える。
浜口は自身の作品について、「光が入ってくる」と語っている6。銅板を彫り、印刷していた時の浜口も、きっと今の私と同様に様々な角度で作品を見て光を感じていたのだろう。作品というモノだけでなく、それを制作した浜口の眼差しも、その光自身も、確かに展示室に在ったのである。まさに、密やかに。
・参考文献
1. 「密やか」『デジタル大辞泉』, 小学館 , 2026年7月3日参照.
2. 加藤清美 (1968).『銅版画 : たのしい造形』, 美術出版社, P.68
3. キャロル・ワックス (1990).「浜口陽三のメゾチントーその歴史的・技術的パースペクティヴ」『浜口陽三展:銅版画の巨匠』, 毎日新聞社, P.18
4. 千葉市美術館『密やかな線』展示室内のキャプションより部分的に引用
5. 千葉市美術館『密やかな線』展示室内のキャプションより部分的に引用
6. 『浜口陽三とその作品 対談=浜口陽三+深澤幸雄』, 季刊みづゑ, 935号, 1984年5月, P.61
