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  • 執筆者の写真これぽーと

国立国際美術館:ベールを剝ぎ取ること。世界と出会うこと。(堀本宗徳)

1.新しいパラダイムを求めて。


「コレクション1 1968年展 新しいパラダイムを求めて」

 展示を観に行ったのは10月中旬頃だったので、もう2カ月も前のことになる。あの時は確か衆議院選挙が近づいていて、煩雑な大阪の街中にもどこかナイーブな雰囲気がある気がした。本展の副題「新しいパラダイムを求めて」も言葉だけを追うと、何か政治的なポーズを示しているようにみえた。


 「新しいパラダイムを求めて」が指し示すのは、きっと本展の最終章に当たる『第4章ーニューパラダイムー「もの派」再再考』のことだろう。「再再考」とあるのだから、「再考」があり「考」がその前段階としてあったことが伺える。


 遡ること2005年、国立国際美術館は「もの派ー再考」展を開催している。この企画展は、美術館新築移転一周年と重なり、その記念に開催された連続シンポジウムの基調報告の中で、以下の2点を改めて問題提起すると述べられている。


 本展が「もの派」の「規定する理論およびその構成要因に関すること」と「美術運動の誕生にまつわること」。前者は、もの派の代表作とも言われる関根伸夫の《位相ー大地》からの他作家や作品への影響、李禹煥の数々の論考によって「もの派」が育まれた事を明らかにし、後者は、関根の作品が生まれた直接的な背景として高松次郎の存在を取り上げた。この報告の文末には、1969年から1970年頃の非表現的美術動向を「もの派」を中心軸とした同心円状に配置するのか、多角的な視点で捉えるのか、もまた課題にあげられている。


 「再再考」では、「再考」での成果を基底に、改めて「もの派」の存在理由と誕生のメカニズムを考えるため、多角的な視点をとっている。ここでは、「もの派」を個別事象ではなく、同時代の文化の中で語る(相対化する)ことが意図され、その時代指標として「1968年」が採用されている。さて、今回紹介されている1968年前後の動向ではランドアート、ハプニング、トリッキーな作品や60年代前衛芸術など、伝統的な芸術からの脱却を目指した作品と出会う。関根伸夫の《位相 NO.5》は「見ることの問い直し」や《位相ー大地》の兆しを感じさせ、第2章への入口に設置された三木富雄《EAR》は、美術批評家の千葉成夫が考察する、具体や反芸術から導き出された「もの派」への脈絡を匂わせる。


 安齊重男の記録写真や工藤哲巳の挑発的な作品などを観ながら、順々に巡り、最深部に当たる第4章で「もの派」と対峙することとなる。同時代の作品が溢れた展示の中、相対化された「もの派」はどのように映るのだろう。


 率直にいうと、私がそれまでに感じていた「もの派」の神秘主義的な、琴線を揺さぶるような衝撃はそこに無かった。具体的には、同時代の渦中にある「もの派」の作品に、李禹煥が述べるような「あるがままの世界と出会う」余地、入り込む隙間が残されていなかったのかもしれない。


 勿論、《位相ー大地》に立ち会った吉田克朗の《Cut-off No.2》には、「もの」としての量感に純粋に驚かされ、その他の作品にも興味深いものは多々あった。しかし、それらは冷静に見つめる対象となるため、ベールを剝がされて点在している。


 「もの派」は李禹煥の思想が育んだが、その後、個々の作家がそれぞれの思想をもつ中で、多様化し、思想の相違や作品に差異が生まれ分岐することとなる。「もの派」の輪郭が思いのほか曖昧であったことに気づかされる。


2.1968年。


 「1968年」は、世界で同時多発的に社会運動が起こり、政治や社会を変えた転換点に位置する。アメリカでは公民権運動やベトナム戦争、中国では文化大革命、チェコスロバキアでプラハの春、フランスでは5月革命、日本での全共闘、、、科学技術による人間疎外への反発と抵抗、戦後の米ソ二極集中型体制の終止符、68年に「近代の終わり」を指摘する者もいる。


 68年の視点から語る時、作品の覆い隠された政治性を見つめることが可能かもしれない。今回の展示で、見つめられるのは「もの派」であり、そして矢先に立たされるのは、理論的支柱である李禹煥になるのではないかと考える。


 「もの派」の政治性とは何であろう。「ポストもの派」に位置付けられる彦坂尚嘉は、李禹煥の「全ては太古から実現されており、世界はそのまま開かれているのに、どこへまた何の世界を作り出すことができようか」の言葉に表されるような、非歴史的な立場や脱政治性を痛烈に批判し、その考えや表現さえも時代の文化形象であると主張していた。また、美術評論家の千葉成夫は李禹煥の主張である、創造の否定を環境芸術やコンセプチュアルアートの亜流として終るのではなく、「根源的なものに対する衝動を感じ、地に足がついた表現にたいする欲望をふくらませている。」と指摘している。つまり、社会総体と思想のレヴェルにおける変革の志向などが60年代日本美術にほとんど存在しないこと、その表現の現状に我慢ならなかったからこそ、李によるもの派に関する理論は形づけられたのだと。


 李禹煥の言葉にある非歴史的な立場も、「再考」の中で高松次郎との影響関係が認められたように、近年「もの派」の神秘性は美術史の文脈からの解体が試みられている。美術史家の尾野正晴は「Tricks and Vision(盗まれた眼)」展を検証する中で、トリッキーな美術と「もの派」の関係性を、「反芸術(反主知主義)」→「トリッキーな美術(主知主義)」→「もの派(非あるいは脱主知主義)」という図式で表現している。トリッキーな美術」から「もの派」への移行は、前述した《位相 NO.5》から《位相ー大地》の経過を辿れば明らかである。高松の「影」シリーズに見られる視覚への思考や知的操作がなされる作品(主知主義)への対抗は、李の視覚や意識の表象作用の否定と繋がっている。美術史の文脈から「もの派」の誕生は語りえるのである。


 68年前後の文化表象として「もの派」と社会はどのように呼応するのであろう。


 社会学者の安藤丈将は、ポスト「1968年」の日本的展開のひとつに、「政治からの断絶」をあげている。68年の運動は70年以降、エコロジー、フェミニズム、消費者、途上国支援、反原発などの「新しい社会運動」として受け継がれるが、欧米に比べ日本は、この運動の制度化が狭く限定的であると指摘する。そしてこの要因は思想の変換にあるという。


「運動の倫理的な思想は、政治的な戦略性の欠如と引き換えの妥協のなさを特徴にしていた。この思想は、1970年代、個人の変革という内向きなものとして理解され、自分たちの価値や議題を政治制度に反映させていくことに対して無関心、ときには敵対的な態度が広がっていく。倫理的に生きることが社会を変えることにつながらない、ライフスタイルの問い直しを政治的に表現してくれる勢力がないという苛立ちを多くの人びとが抱え、政治不信や無関心が広がる土壌を用意した。」(*1)


 「もの」を通して世界と出会う(または、自己と向き合う)ことに居心地の良さを覚えるのは、この脱政治性の志向にあるのかもしれない。日常生活と政治の断絶。無関心。脱政治性のベールを剥ぎ取った時、「もの派」の「もの」から世界と出会うことはできるのだろうか。68年の中で相対化された「もの派」の思想(李の理論)や作品は、非歴史的に現れた芸術表現ではないことが明かされる。同時代の文化表象として、歴史文脈を持ち、「脱政治性」という政治性を内包するのではないだろうか。神話化された「もの派」のベールは剥ぎ取られ、そこで私たちは、まざまざと現実を直視しなければならない。脱政治性への批判は、当事者と共に私たち鑑賞者にも向けられているのである。そのことを自覚し、向き合った先に「新しいパラダイム(見方)」の獲得は、ありうるのかもしれない。


3.「ほぼ皆既」月食。


 旅先で再雇用のタクシー運転手が「働かないと生きていけない。選挙にいっても何にも変らん」と言っていた。衆議院選挙が終わり、季節は秋から冬へと変わった。11月19日の夜、89年ぶりの「ほぼ皆既」の部分月食を見た。大学でバイトをしている時、友人が駆け寄って教えてくれた。暇だったので、休憩を貰い外でじっと部分月食を眺めていた。「世界のある鮮やかさを「見た」のであり、というより向こうとこちらがとっさに「出会った」のである」。これは、李禹煥が「出会いを求めて」の文章中で書いた言葉である。脱政治性というやや批判的な意見にたどり着いてしまったが、あるがままの世界は、生きる希望なんじゃないかと思う。そうじゃなかったら、こんな絶望的な世の中で何に救いを求めればいいのだろう。


*1安藤丈将「第11章 日 本――全共闘とべ平連」、西田慎 、梅崎透 (編)『グローバル・ヒストリーとしての「1968年」:世界が揺れた転換点』、ミネルヴァ書房、2015、332頁

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・参考文献

千葉成夫『増補 現代美術逸脱史 ――1945-1985 』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房 、2021

中井康之「もの派」建畠哲監修 島敦彦他(編)『野生の近代 再考-戦後日本美術史 記録集』、 国立国際美術館、2006、324頁

国立国際美術館(編)「もの派ー再考」 展カタログ、国立国際美術館、2005

李禹煥『出会いを求めて : 現代美術の始源』、美術出版社、2000

彦坂 尚嘉「李禹煥批判ー〈表現〉の内的危機としてのファシズム」『反覆 新興芸術の位相新装改訂増補版』‎、 アルファベータブックス、2016、204ー248頁

尾野 正晴「「トリックス・アンド・ヴィジョン 盗まれた眼」展について」『静岡文化芸術大学研究紀要』、2001

西田慎 、梅崎透 (編)『グローバル・ヒストリーとしての「1968年」:世界が揺れた転換点』、ミネルヴァ書房、2015

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会期・会場

2021年10月12日(火)~ 2022年1月16日(日)

 

・執筆者プロフィール

堀本宗徳

奈良教育大学(略称:奈教)在学中。大学では版画史を学んでいます。


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