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  • 執筆者の写真これぽーと

岐阜県美術館:作品を開き・共有する場所であるために(丹治圭蔵)

 岐阜県美術館は、岐阜市内の閑静な公園内、十数点の野外彫刻に囲まれた場所にある。2015年には、各地で参加型アートプロジェクトを展開する日比野克彦を館長に迎え、その色を受け継ぐように「ナンヤローネ」と呼ばれる市民協働型のコミュニケーションプログラムを展開しているのが大きな特徴と言える。

 館のコレクションは、郷土にゆかりのある作品で形成されている。洋画家の山本芳翠や熊谷守一、日本画では川合玉堂、現代美術においては荒川修作など、日本美術を語る上で特筆すべき作家の作品が収蔵されている。一方、海外の美術では、19世紀末に活躍したフランスの画家であるオディロン・ルドンとその周辺の作家たちの作品を中心的にコレクションしており、県民の人気を集めているようだ。(筆者が訪れた際、お客さんが美術館スタッフに「ルドンの作品は展示していないの?」と質問していたのを目にした)


 筆者が訪れた12月半ば、企画展では岸田劉生展が開催されていた。これは岐阜県美術館が2018年に、3点の岸田の油彩画を収蔵したことを機に企画された。主に茨城県の笠間日動美術館の所蔵品で構成された本展は、美術館同士のコレクションを繋ぐことで、常設展の裾野を広げる企画展としても捉えられる。「〇〇美術館コレクション展」という文言が冠された展示は、特段珍しいものではないが、他館と比較してみることで自館のコレクションの姿をより深く見つめ直す機会になるだろう。

 常設展は、3つのセクションに分けられていて、それぞれ「ぎふの日本画 いのちのリレー 〜土屋禮一を中心に〜」、「寄贈記念 熊谷守一展」そして「工芸・新収蔵品を中心に」と題されている。これらはテーマとしてはかけ離れているように感じられる一方で、いくつかのパースペクティブで興味深い対比を見ることができる構成になっていたように思った。順に巡っていこう。


 「ぎふの日本画 いのちのリレー 〜土屋禮一を中心に〜」では、岐阜県出身の土屋禮一とその周縁の画家による、大判の日本画が出品されていた。ここで、着目したいのは、土屋禮一の絵画の変遷である。土屋は、1960年代後半から作品を発表し、現在まで日展を主な活躍の場としている作家だ。2つに分かれた最初の部屋で展示されていた、1970年代及び90年代後期の作品は、黒く塗り込められたザラつきのあるテクスチャに、発色の美しい顔料を丁寧に合わせ、地と図が調和している。《雲》(1995)や《道》(1979)は落ち着いた画面で、奥まった色彩の重なりに、人物や風景のモチーフが呼応し浮かび上がる魅力的な作品だった。しかし、展示室を進むとその印象はガラッと変わる。《雲龍》(2011)や《桜樹》(2008)では、龍や桜と言ったポップなモチーフが、写実的な描きこみや色彩など構成に明らかなヒエラルキー与えられて配置される。しかし、そこで「いのち」の印象を呼び起こすのは、華やかなモチーフではなく、先述の卓越した技量に裏付けされた雲や樹木など、画面の大半をしめるひそやかな背景だった。土屋は一つの対象を主題にした画面から、いくつかの対象を描くスタイルに変化し、明瞭なコントラストによってモチーフの「いのち」を呼び起こすようになっていた。

 「熊谷守一展」は、熊谷の親族や近しい人間から、作品や資料を寄贈されたことを機に開催された記念展示である。熊谷に特徴的なサイズの小さい作品が並ぶ中で、正面の突き当たりには比較的大きな作品が3点並んでいた。それぞれ「死」をテーマにしていることは読み取れるが、その向き合い方には大きな違いを見出すことができた。《轢死》(1908)、《蝋燭》(1909)の写実的で暗い画面には、若き日の熊谷が描く行為によって、答えのない問いに向き合った痕跡があり、長女・萬が21歳で亡くなった際の野辺送りの帰り道の様子を描いた《ヤキバノカエリ》(1956)には、のっぺらぼうであっけらかんとした家族が佇んでいる。単純化された平面的な熊谷の後年の画風は、自身が持つはずの「悲しみ」を一旦据え置く。そして、その代わりに、鑑賞者が3人を眺めるかのような構図は「いのち」に対する真摯な主体性をこちらに求めてくる。


 最後の展示室、工芸を中心とした新収蔵品展では、クラフトから立体造形まで種々並んでいたが、その中で目を引いたのは山田光のコンセプチュアルな一連の作品だった。「The assemblage of points」(点群)という文字が分割され、オセロの石のような部分に書かれ構成されている《点の集合》(1979-80)は、この構文が解体可能であることを示唆する。これは「点群」と「点」の関係が、あくまで形而上学的なものに過ぎなかった事実を引きずりだす振る舞いだ。ならば、本作を前の部屋に展示されていた熊谷の《夕映》(1970)や《朝のはぢまり》(1969)といった光と影の科学的な現象と、その表現を絵画によって追い求める姿勢と共通した視点を持つと位置付けることもできるのではないだろうか。


 前回のレビューと合わせて感じるのは、常設展の大きな解釈可能性である。企画展と比較して、作品や作家、ジャンルに至るまで様々なスケールを横断するのが常設展の特徴の一つだが、それによって、提示された文脈に過剰に依存せずとも作品を見ることができるのが鑑賞者にとって難しいところでもあり、また同時に潜在的なポテンシャルであるように思う。美術館では、自館のコレクションにおいて、思いもよらない組み合わせによって、従来のコンテクストを解体する期待を込めて作品を開くこともできるのだ。その点で、冒頭で触れた「ナンヤローネ」は、既に鑑賞者との相補的な関係を結んでいることから、個人の感想・解釈が表に現れる仕組みとして機能するだろう。現在では、オンラインミーティングツールやARアプリケーションを利用することで、自宅にいながら受けることのできるプログラムも企画されている。このような取り組みと併せて、この先も継続的に訪れることで、常設展における鑑賞プログラムの可能性を体感してみたい。


 

会期・会場

岐阜県美術館

ぎふの日本画 いのちのリレー 〜土屋禮一を中心に〜

2020年12月18日〜2021年2月28日

工芸・新収蔵品を中心に

2020年9月26日〜12月20日

寄贈記念 熊谷守一展

2020年9月8日〜12月20日

 

・執筆者

丹治圭蔵

1997年生まれ、情報科学芸術大学院大学(IAMAS)在学中。近現代美術史を手掛かりに、芸術作品における再制作について研究。






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