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市原湖畔美術館 常設展:揺らぐものを見る/揺らぎながら見る(貝保絢音)

執筆者の写真: これぽーと
これぽーと
9 分前
読了時間: 9分

市原湖畔美術館 

2026年7月18日から9月23日まで

貝保絢音

千葉県出身。東京大学大学院教育学研究科在籍。学校における美術科教育や美術館におけるラーニング・プログラムを研究している。特に、当事者が数値化できない価値だと感じている部分を、どのように記述し社会と共有できるかに関心を持っている。現代アートが好き。


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赤い車の窓ガラスの向こうを覗き込みたくなった。


小松富士子《THE SKY NO ONE SAW -Ⅱ》(1986)には、一台の赤い車が大きく描かれている。窓の向こうには運転席があるようだが、人が居ないということが辛うじてわかる程度で、車内の様子はよく見えない。代わりにガラスの表面には、青い空や周囲の木々が映り込んでいる。なぜ無人なのか?誰かがいた痕跡は残っていないか?もう少し身体を近づけ、手で光を遮って窓の中を覗けば見えるような気がする。しかし当然そんなことをしても見えるようにはならない。目の前にあるのは車ではなく絵画だからだ。現実の窓ガラスであれば、身体を動かせば反射する景色も変化する。しかし描かれた反射像は、こちらがいくら動いてもそこにありつづける。私は車内を見ることを諦め、ガラスを覆う空や木々の反射に目を向けた。人物を直接的には描かずに想像させるという表現は珍しくない。たとえば17世紀前半の日本で数多く描かれた「誰が袖図」では、衣桁に掛けられた着物や調度品から、その持ち主の面影が想起される。しかし《THE SKY NO ONE SAW-Ⅱ》の車内には人物の手がかりがほとんどない。この絵と向き合う中で起きていたのは、人物の気配を捉えようとした私の視線が行き止まることによって、光や空、木々、ガラスの表面が存在感を帯び始めるという出来事だった。


似たことを思わせる画家に、19世紀末から20世紀初頭に活動したデンマークの画家ヴィルヘルム・ハンマースホイがいる。ハンマースホイは、人のいない部屋や、背を向けた人物のいる静かな室内を繰り返し描いたことで知られている。不在の表現に関心を持つ現代美術家バーバラ・ブルームはその無人の室内画について、そこは empty(空っぽ)ではあっても lacking(何かが欠けている状態)ではない、と述べている[1]。人物がいないからこそ、光、壁、床、扉といった、普段なら人の存在の背後に退いてしまうものが前景化するというのである。《THE SKY NO ONE SAW-Ⅱ》で私に起きたことも、これに近い。人物についての手がかりを探すことに失敗したとき、反射する空や木々、窓ガラスそのものが、それまでとは違う密度で見え始めた。



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千葉県にある市原湖畔美術館は、その名の通り高滝湖というダム湖の湖畔に建てられている。美術館の中を歩いていても、大きく広がる空と豊かな緑、静かにきらめく湖が度々視界に入るようになっており、これらの自然環境も鑑賞体験の一部となっている美術館だ。


2026年度第1期の常設展である「曖昧な気配」には、市原市名誉市民である版画家・深沢幸雄をはじめ左京武允、小松富士子、武内和夫など8名の作家の作品が並ぶ。個々の作品についての解説文は置かれていない。代わりに、展示室入り口の壁面で次の文章が鑑賞者を迎え入れる。


「読み取りにくい表情、かみ合わない視線、不思議なモチーフの配置、現実感の希薄な風景――。人物や風景、抽象表現を通して漂う曖昧な気配は、見る人それぞれの記憶や想像力と響き合い、多様な物語を生み出します。[2]」


展覧会で最初に提示されるのは、「気配」という見方である。私はその言葉を、当初そこには見えない誰かの存在を感じ取ることと結びつけていた。《THE SKY NO ONE SAW-Ⅱ》でも、まず探したのは車内にいたかもしれない人物だった。だが、展示を歩くうち、見ることで現れてくるものは、そうした不在の人物だけではなくなっていった。


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永盛和夫《愛慕》(制作年不明)は、紫がかった絵具が画面全体を覆う抽象画である。色の濃淡や筆跡を追っていると、私にはそこに、二羽の鳥が向かい合い、嘴を触れ合わせようとしている姿が見えてきた。しかし、鳥の輪郭を確かめようと目を凝らすほど、その姿は再び筆跡や色の重なりへとほどけていく。二羽の鳥が完成した形で画面のどこかに隠されていて、私がそれを発見したわけではない。画面にある絵具の形と、それを見る私とが出会ったときだけ、「二羽の鳥」というまとまりが一時的に現れたのである。目を離せば、次にはもう鳥には見えないかもしれない。


ここで感じた「気配」は、《THE SKY NO ONE SAW-Ⅱ》で探していた不在の人物とは少し違っていた。そこにいた誰かを想像するのではなく、まだ何者とも決まりきらないものが、鑑賞者の介入で一時的に姿を得る。見ているうちにじわじわと気配が現れてきたのである。


時田幸彦《人物》(2007)には、腕を組み目を閉じた人物が描かれている。人物であることはわかるものの、その顔立ちや表情ははっきりしない。「髪型や服装からおそらく女性だろう」、「口角は少し上がっているかもしれない」というように人物のパーツを探りながら見るのだが、それにも限界がある。そこで人物という「モチーフ」としてではなく、キャンバス上の絵具という「物質」として見つめ直してみると、頬から肩を経て背景へ伸びる筆触や、手の輪郭から外へ引き延ばされた絵具が目に入る。すると、それまで人物を表すためのものとして見ていた筆跡が、今度は筆を動かした行為の痕跡として見え始めた。画面から立ち上がってきたのは、別の人物像ではなく、すでに終わった作家の「描く」という出来事だった。いまここにはいない人間が、どのように筆を動かし、人物の輪郭を崩していったのか。その過去の行為が、絵具の痕跡から想像される。時田は人物を描くと同時に、人物を画面の中に溶けさせていたのかもしれない。描かれた人物はぼんやりとしているのに、その人物を溶かしていった作家の身体を想像させる痕跡は、むしろ鮮明に残っている。


《愛慕》では、抽象的な画面から二羽の鳥という具象的な像が現れた。《人物》では、絵具から、かつてそれを動かした身体と時間が現れた。「気配」が立ち上がる場所は、画面のなかに描かれたものから、画面の外にある物事へと少しずつ広がっていった。


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《THE SKY NO ONE SAW -Ⅱ》とともに展示されていた小松富士子《Tyler School Campus Spring》(1974)には、白い車のそばに立ち、こちらを向いて微笑む女性がいる。彼女の視線を受けていると、画面のこちら側に彼女を見る誰かが立っているように感じられる。彼女の写真を撮る人物の位置に、自分が立たされているようだ。そうして観ていると、女性の背景に赤い車があることに気がつく。先ほど見た車ではないか、と反射的に思った。先ほど無人だった赤い車に乗っていたのはこの女性なのかもしれない、何かが起きて車から去ったあとなのか。二台が同じ車だという根拠はない。それでも、数分前に見た《THE SKY NO ONE SAW-Ⅱ》の記憶が残っていたことで、それまで無関係だった二枚のあいだに時間的な「前」と「後」が生まれた。どちらの画面にも描かれていない時間が、作品の配置と私の記憶によって立ち上がったのである。


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青く波打つ色面に、身体を横たえる人物がいる。深沢幸雄の銅版画《飛天の夢》(1971)だ。その青を水面あるいは水中のように見るうちに、高滝湖のほとりでこの作品を見ているという事実が意識に入り込んでくる。美術館の目の前に広がる高滝湖は氾濫を繰り返す養老川に対応すべく1990年に完成したダム湖であり[3]、常設展示室前のスペースにはかつてそこで暮らしていた人々の記録が展示されている。水中に人が横たわっているようにも見える深沢の作品を見ていると、ダム建設によって水の下へ沈んだ土地や、そこで営まれていた生活が連想されるのである。しかし同時期の深沢の作品を見れば、横たわる身体は必ずしもこの場所やダム建設と結びつくモチーフではないことはわかる[4]。それでも、高滝湖を窓外に望み、かつてこの土地に暮らした人々の記録を同じ館内で見たあとでは、私は描かれたものを場所から切り離して見ることができなかった。市原湖畔美術館では、作品鑑賞を外に広がる風土から切り離して完結させることの方が難しいのかもしれない。


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展示を歩くうち、「気配」という言葉が指すものは何度も変わった。不在の人物、ぼんやりと現れる鳥のイメージ、作家の身体性、二作品をつなぐ時間、作品と土地との関係ーー。どの気配も、はじめから画中に完成した形で存在していたわけではない。観ること、想像すること、思い出すこと、場所にいることによって、その都度立ち上がってきた。


そもそも、これらの作品は「気配」という共通の主題のもとに制作されたものではないだろう。制作された年代も作家も技法も異なる作品が、市原市のコレクションから選び出され、この展示室で初めて「曖昧な気配」という言葉のもとに隣り合っている。市原湖畔美術館では、2013年のリニューアル以後、深沢幸雄を中心に市原市ゆかりの作家を常設展示室で紹介しながら、近年は「みる」や「水、いのちのかたち」といったテーマによってコレクションを組み替える展示も行ってきた[5]。本展は、そうしたテーマ型のコレクション展示の延長にありながら、「気配」という、画面上の特定のモチーフには還元しにくい視点を設定することで、作品同士や鑑賞者、さらには場所との関係までを展示の一部として立ち上げている。既存のコレクションを、作品固有の意味を解説するのではなく、鑑賞者が作品間・記憶・場所との関係をつくる余地を残すように再配置することで、「収蔵作品について知る場所」としての常設展から、収蔵作品同士の関係をその都度つくり直す場所へと変える試みと言える。


この展覧会に個々の作品の「正解」を与える解説がないことも、関係を作り直す余白を残すためなのだろう。《愛慕》に二羽の鳥を見ても、小松の二作品の間に物語を感じても、その読みが「正解」であると保証されることはない。それでも観る者は、作品の不確定性に立ち止まり、「曖昧な気配」という展覧会名に促され、作品と向き合っては想像することを繰り返してしまうのである。そしてそこに、鑑賞者が介入するからこその新たな「意味」が立ち現れる。観ることで作品の意味・展覧会の意味を生み出す存在としてここに居る、と認識した時、そこに確かにキュレーターの「気配」を感じるのだ。


揺らいでいたのは、作品の意味だけではなかった。何が見えているのか、どこからそれが現れたのかを確かめようとするたびに、観る側の有り様もまた揺らいでいたのである。



参考文献

[1] Barbara Bloom . “ Barbara Bloom on Vilhelm Hammershøi’s Moonlight, Strandgade 30 “ . The Metropolitan Museum of Art .  2016-2-29. https://www.metmuseum.org/it/perspectives/the-artist-project-barbara-bloom (2026-8-30参照)

[2] “ 常設展示室について “ . 市原湖畔美術館ホームページ . https://lsm-ichihara.jp/collection/2026_01/ (2026-8-30参照)

[3] “ 高滝ダムのおいたち “ . 千葉県ホームページ . https://www.pref.chiba.lg.jp/d-takataki/contents/oitachi.html (2026-8-30参照)

[4] 深沢幸雄 画 . 深沢幸雄 = Yukio Fukazawa : 市原市所蔵作品集 . 市原市 , 2014 , 239p.

[5] “ これまでの常設展 “ . 市原湖畔美術館ホームページ . https://lsm-ichihara.jp/collection/year/2024/ (2026-9-12参照)





 
 
 

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