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東京オペラシティ アートギャラリー:間(あわい)による表現ー作品と鑑賞者の対峙(masaharu itoyama)

  • 執筆者の写真: これぽーと
    これぽーと
  • 3 日前
  • 読了時間: 6分

成人女性の背丈ほどだろうか。黒一色で画面全体が覆い尽くされている。そこにはグラデーションもなければ、筆を走らせた跡もない。真っ黒に塗りつぶされたキャンバスはここへと至る痕跡を語らない。しかし、無機質な瑞々しさは白日の下にその存在を晒している。キャンバス地のざらっとした樹皮のような質感とは異なる、滑らかなふくらみ。


その顕れは、横一文字に切り裂かれた樹皮の切り口からじわりとにじみ出し、ゆっくりと一塊になっていく樹液のように、平面だったキャンバスから画面を超えてこちら側の三次元へと滲み出るように漏れ出てきている。これは絵画なのか彫刻なのか。結果なのか過程なのか。波紋のような余韻を平面に残すその姿に、彼我の境界が浸食され、自分がいまどこにいるのかを問われている感覚を覚える。


松谷武判の《雫》である。


松谷武判《雫》1985年
松谷武判《雫》1985年

東京オペラシティ アートギャラリーで開催していた「寺田コレクション ハイライト前期 収蔵品展085 寺田コレクションより」にて、展示室の最後におかれている作品だ。


本ギャラリーは、新宿区初台駅直結の54階建て複合文化施設・東京オペラシティ内にある。寺田コレクションは、当地の地主であり造園を営んでいた寺田小太郎の篤志により蒐集、形成された。


「寺田氏のコレクションの多くを占める抽象に焦点を当てる。」*(1)と紹介文に記されているように、本展には抽象的な作品が揃っている。それらは、写真のように現実を視覚で捉えたものではない。何が描かれているのかが伝わることを拒むかのように、モチーフが明瞭に描かれることない。「抽象」という表現だけが、作家が感じているものを体現できる唯一の顕れであるかのような作品群となっている。


展示構成は、後半に進むにつれ、抽象性が高まっていく。鑑賞者は作品と対峙するそのなかで、作品と自身とが「展示空間というフレーム」や「存在という対等なフレーム」の中におさまることで関係性を見出し、寺田が造園で植物を観察し設えていたように、いまこの関係性の間に立ち現れるものが何なのかを問われるようになっている。


展示室は2つあり、それをつなぐ細い廊下によって構成されている。

一つ目の展示室には抽象的であるが、カラフルな色彩やシンボル、記号といった「何が描かれているのか」を知るための糸口のある作品群が展示されている。


展示風景
展示風景

会場で最初に触れる作品が赤塚祐二の《Two-10601》だ。赤塚は、対象の色や輪郭を操作することで、そのものを明瞭に描く以上にその姿を描こうとする抽象絵画の作家である。


《Two-10601》は先述の松谷武判の《雫》と同様に黒を基調とした作品だが、こちらは雨が降る直前の曇り空を思わせる淡いグレーで覆われた画面に、二人の人物が霧で覆われたかのような曖昧でか細いシルエットで描かれている。その筆致は遠くの霞の中を描くようにペインティングナイフで絵具が空間を捉えており、明瞭な線は存在しない。だが同時に、丹念に一筆ごとに色をのせたような繊細な印象をあわせ持っている。


赤塚祐二《Two-10601》2001年
赤塚祐二《Two-10601》2001年

画面上の二人は向き合うことはなく、手が届きそうで届かない絶妙な距離感で画面左を向いて立っている。右の人物は肩ほどまで伸びた髪の毛をしている。女性だろうか。顔は画面上で最も明るいハイライトが入ってこそいるが、やや暗い面持ちで、まっすぐに左側の人物の背中を見つめている。対して、左側の人物は背中をすぼめたような姿勢で、肩越しに後ろの人物を横目で振り向く様子が描かれている。その顔はグレーの暗い表情ではあるが、左頬に微かに後ろの人物に通じる明るさを宿している。前の男の足元は前向きとも後ろ向きともとれるような影で描かれることで、離れるのか近づくのか、揺れ動く感情や次の瞬間を予期させる作品となっている。


一つ目の展示室では、キュビズムを思わせるカラフルな色遣いの抽象作品が並ぶが、その先の細い廊下にはモノクロで描かれた小品が並ぶ。二つ目の展示室では、記号的表現や賑やかな色使いの作品は減っていく。抽象的であるがシンプルな構図の作品は、その明瞭さによって鑑賞者が描かれているものの解釈を行うよりも先にその姿を認識させ、意味の読み解きよりもただそこに在る存在感が先行する作品へと移行していく。


しかし一室目の最後に本展のハイライトの一つがある。それは今回の展示群の中では異質にも映る、有元利夫による《花火のある部屋》である。38歳という若さでこの世を去った有元の作風は、ルネサンス期に発展した遠近法や奥行きのある構図によるリアルな描写と宗教性が両立したイタリアフレスコ画、また精密であるがどこかデフォルメされた図像を描く日本仏画が合わさった、独特な空気感が特徴である。


特に本展においては、明確に場所も人物も色使いも明瞭に描写している、いわゆる「絵画」らしい《花火のある部屋》は、本展においては特筆すべき作品となっている。


有元利夫《花火のある部屋》1979年
有元利夫《花火のある部屋》1979年

画面は上半分が大胆に余白を使った構図で、下半分には赤レンガ色をした石張りの床に朱色のカーペットが敷かれ、四隅にはクリスマスシーズンのキャンディを思わせるストライプ模様の筒花火が吹き上がる。まるで古代の儀式を連想させる舞台である。筒花火からクリスタルのように吹き出す煌めく光。ちらちらと星のようにまたたく金色の火花。その中央には何を考えているのかを読み取れない表情で、中性的な人物が威厳とともに構えている。


花火と同じ色をした衣装に身を包んだ人物には、燦然としたクリスタルの輝きを宿したような印象を受ける。足元に目を移せばあるはずの影はそこに無く、床のパースとは少しずれた足の輪郭を覗かせている。床とのあるべき関係性を失ったその立ち姿に、あたかも浮遊しているような錯覚を覚える。頭上は画面外へと伸長する高さを髣髴させ、どこまでも昇っていくようだ。


本展の中で、ここまで対象や場を直接的かつ具体的に描いた作品はない。しかし、リアルのようでそうでもない両義性を含んだ描写がもたらす、有元作品の捉えようのなさは、冒頭の《雫》同様、見る者への問いを投げかけてくるようだ。


この有元の作品があることによって、より展覧会のテーマが印象付けられる。あるようでないもの。どちらともとれるミステリアスな有元の作品は、神の気配を感じさせる。触れたことも見たこともないが、存在を感じる何かが描かれているのだ。それを明瞭に提示しながらも捉えられない気配をほのめかす有元の作品があることで、他の作品の奥行きを一層深く捉えることを可能にしてくれるのである。


《雫》を描いた松谷は日本の抽象表現の一時代を築いた「具体」に参加していた。その活動の中で、『具体美術宣言』という文章が記されている。


「具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質を偽らない。…物質を生かしきることは精神を生かす方法だ。精神を高めることは物質を高き精神の場に導き入れることだ」*(2)


「具体」は物質を生かしきることで高い精神性に達することができると考えた。作品そのものが世界に存在するひとつの物質だとすれば、作品を汲みきることができたとき、鑑賞者は自身の精神を生かしきることができる。同時に作品も未だ知られぬ価値を顕わにすることだろう。


本展は、鑑賞者に問いかけるような作品にあふれている。そして作品は、鑑賞者がどこにいて、なにをみているのかを問いかけるように、鑑賞者を待っている。


会場・会期

東京オペラシティ アートギャラリー

2025年10月24日から12月21日まで

・執筆者プロフィール

masaharu itoyama

西新宿在住。「藝術と技術の対話」受講者。note

 
 
 

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