top of page

静岡県立美術館 ロダン館:考える人が溶けていく—ロダンの「生命感」をめぐる観察と比較(らちまゆみ)

  • 執筆者の写真: これぽーと
    これぽーと
  • 1 日前
  • 読了時間: 7分
1:考える人が溶けていく——ロダンの「生命感」をめぐる観察と比較

はじめに消えたのは、輪郭だった。


地元美術館のロダン館でワークショップが開催された。私は《考える人》の前に座りデッサンに挑む。受験期に叩き込まれた手順で、目で撫でるように量塊を掴み、輪郭を追っていた。ところが鉛筆は途中で行き場を失う。石膏デッサンのように筋肉が捉えられず、さらに前腕と太ももの接地面は泥のように縫合されていた。かつてダンテの帽子であっただろうものは頭蓋へ沈み、固いはずのブロンズが、ドロドロに崩れてしまいそうだった。


オーギュスト・ロダン《考える人》1880(拡大1902-04)年
オーギュスト・ロダン《考える人》1880(拡大1902-04)年

幼い頃はロダン館が少し苦手だった。その頃はわからなかったが、この崩れそうな姿が理由だったのかもしれない。


昔遊んでいたポケモンに、そのようなヘドロのキャラクターがいた。形も性質も恐ろしく、対戦するのも嫌だった。いま目の前にしている《考える人》は、どことなくそのポケモンを思い出す。


大人になった今、かつて恐ろしかった像から目が離せない。この流動性こそ、ロダンが近代彫刻の父と称された所以ではなかっただろうか。これは「人の体」らしく振る舞う像ではない。ロダンは神から与えられたはずの完璧な人の造形を解体し、境界が崩れ続ける姿に、生命の尊さを棲まわせているのではないだろうか。


2:ロダン彫刻のどこに「生命感」が宿るのか

なぜ《考える人》が流れ落ちていると感じたのだろうか。古代ギリシャやローマの彫刻であれば理想化された人体像が描写されていた。陰影の境はとても美しく、伸びやかなストロークを引くことができる。しかしロダンの彫刻は違う。


理想化された人体像から、自然主義に基づいた内的生命を表現したロダン。その制作は、19世紀の革新的な取り組みであった。それは自分の実感をもとに言い換えれば、彫刻としての完成形ではなく「形が定まらず変化する姿」を造形の中心に据えることになる。かつてレオナルド・ダ・ビンチの素描からは、生命の細かな振動を表現するため、はっきりとした輪郭線が消滅したといわれる[1] 。ロダン彫刻にも命の揺らぎが崩れゆく像に現れているのではないだろうか。目の前の《考える人》は、いつかドロドロに崩れ、ただの塊となってしまいそうだった。


静岡県立美術館のロダン館には、本作以外にも多くのロダン作品が展示されている。実際の人間より一回り大きく作られたブロンズ像は、天井の高い空間に綺麗に間を開けて並んでいた。かつてロダンは、出世作《青銅時代》を発表した際「人型を取ったのではないか」などと批評されていたが、なるほどそう感じるのも頷ける。彫刻のなかに命を感じていたのだろう。冷たいブロンズの一体どこに命が宿っているのだろうか。


3:同時代の彫刻家とロダンの表現の違い

同時代に活躍した彫刻家として、イタリア出身のメダルド・ロッソがいる。彼の《病める男》は、ロダン作品のように塊としての物質感が伝わる。衣服と椅子の境界は曖昧で、まだ制作途中の作品のようでもある。表面には粘土を押し当てた跡があるだけで、それらを均した様子はあまりない。ロダンもロッソも、そんな鋳造前の形が前面に現れることで未完成な印象を与える。


しかしロッソの描写にはロダンと大きく異なる点がある。《病める男》は比較的小さな作品だが、顔の描写は意外なほど明瞭だ。とはいえ顔と比べると、足元に向かうにつれて、人の形が崩れていき、その変化の度合いがより全体の生命感を危うくさせているようだった。ロッソは「印象主義的彫刻」と形容される彫刻家で、「芸術とは、光によって与えられる一瞬の感覚の表現でしかない」と述べている。つまり足元にかけての表現に見られるように、ロッソも明瞭な細部より揺らぎを優先しているといえる。


ただし同じ揺らぎを感じるにしても、より観察を続ければ、ロダン作品は大小問わず描写の濃淡にムラがないことがわかる。どこをとっても「溶けて」いくようなのだ。ロダンは描写の濃淡ではなく、マッスそのもので生命感を表現している。二人の作家は共に未完成のような姿をしているが、ロダンにとっては量塊、ロッソには瞬間の揺らぎがそれぞれの制作上の重要な関心事だったのではないだろうか。


4:古典的な「永遠性」を打破する極端な生命サイクル

ロダン作品の生命感は、古典彫刻の「永遠の美」とは程遠い。《考える人》は果たして数百年後も同じ形を保っているのだろうか、そんな危うささえある。


一見、飛躍した比較だが、《考える人》とポケモンのベトベトンはどこか共通するようにも思える。私が《考える人》に受ける生命感とは、印象主義の生き生きとしたものやロッソならではの命の儚さではなく、得体の知れなさだった。ただれ落ち、泥のように沈澱する皮膚は、まさにベトベトンだ。皮膚が境界を保てず、表面が「面」から「流れ」へ転じる感覚である。これは《考える人》の元となった《地獄の門》ではより強調された描写のように思う。扉の表面がまるで大きな脂のようにたゆたい形が定まらない。


ヘドロポケモンのベトベトンは、空腹を覚えると暴れだす性質を持ち、これは常に毒素を補給しないとエネルギーを維持できないためとされている。ヘドロを生命といえるかは分からないが、エネルギーの循環が著しく早く、人肌のように数十年形を維持することは困難な状態なのだろう。《考える人》は近代彫刻以前の「永遠性」を打破する手段なのか、それによって私はあろうことかロダンの彫刻に、ベトベトンのような極端な生命サイクルを見出してしまうのだ。


もちろん、互いに生成のメカニズムは大きく違う。ロダンは「人間像が崩れる」恐ろしさを造形し、ベトベトンは「ヘドロが人間形象をかろうじて保つ」設計であり、いつでも崩壊し得るという予感が像の性格そのものになる。前者は像が物質に引き戻され、後者は物質が像を仮保持するという像と物質の関係性が異なると言えるだろう。


いずれにしてもどちらも健やかな身体のイメージではない。人間やある生命的な形になることを否定され、命がついえる危うさを持つ。この極端な生命サイクルは、命を表現しながらも死に近い不安を感じさせる。


5:美術館が演出する「永遠性」とロダンの「生命感」

量塊で生命感を表しつつ、その内部には極端な生命サイクルで生の不安定さを宿らせるロダン彫刻。それらを整列させた美術館内に目を向けると、またその生命の表現が一層際立つ。

静岡県立美術館の常設展示であるロダン館は、真っ白な空間が印象的だ。2026年で開館40周年を迎える本館は、重厚なモダン建築に落ち着いた色彩や照明を使用している。しかし平成6年に新館としてオープンしたロダン館に入ると、パッと明るくなるのだ。


白というとニューヨーク近代美術館のようなホワイトキューブに見られる中立的な空間を思い出すが、ロダン館はそれとも異なる。天井がグッと高くなり、教会のように厳かだ。本館を引き継いだような荘厳さと、白が持つ非時間性がロダン館の特徴と言えるだろう。そこにロダン作品が配置されることで、より一層「極端な生命サイクル」が際立つ。それは時が止まった空間に抗い、必死に抜け出そうともがく、異常な生命感である。


ロダン館を入ると真っ先に《地獄の門》が目に入る。展示室の中央に位置しているので、本作が空間演出の根幹にあると直感的にわかる。そして門の前に大きく記されたダンテ『神曲』の一節に視線が移る。「永劫の苛責に遭はんとするものは此門をくゞれ[2] 」すなわち、永遠の苦しみを受ける者は地獄の門を通りなさいという意味だ。もちろん望んで通りたい者などいない。《地獄の門》に彫られた人々も、門の上部の《考える人》も、さらにはロダン館に設置された全ての作品が、永遠の地獄に抗うかのようだった。


オーギュスト・ロダン《地獄の門》1880―1917年
オーギュスト・ロダン《地獄の門》1880―1917年

命の叫びは美しくもあり、同時に底知れない不安感が押し寄せてくる。だからこそ、私はこのゾクリとする感覚に挑むように何度も足を運んでしまうのだ。これまで多くの美術館を訪れたが、静岡県立美術館が最も多く足を運んだ美術館だろう。


ロダンは数百年の彫刻の歴史を覆した偉大な彫刻家だ。しかし一体なにが凄いのだろうか。


今回彼が表現した壮絶な生命感に触れたことでその片鱗が理解できた気がした。

次にここを訪れたとき、《考える人》は一体どこまで溶けているだろう。



[1] ルカ・ルチーニ、ニコ・マラスピーナ(監督)『レオナルド・ダ・ヴィンチ 美と知の迷宮』2015年、コムストック・グループ(配給)、イタリア制作。

[2] 夏目漱石『倫敦塔』1905年より。

会場

静岡県立美術館

・執筆者プロフィール

らちまゆみ

アートテラー・日本工学院専門学校非常勤講師。静岡県出身、多摩美術大学卒。アートをもっとカジュアルに!をテーマに美術史解説チャンネル YouTube「らち-ART-」を発信。著書『大人の雑学西洋画家辞典』、監修『1日5分で名画をめぐるごほうび美術の旅』。公式HP


 
 
 

コメント


bottom of page