高松市美術館:流れる空白と二重の皮膚ー「瀬戸内国際芸術祭2025の作家たち」をめぐって(sahisa)
- これぽーと

- 2 日前
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1:球体と像のあいだで
球体のすき間に、女の肩がひらりと現れた。
展示室の中央には、写真の断片と玩具のスティックが絡まりあってできた球体が浮かび、その奥に、少し腰をひねった黒い人影が立っている。球体の表面と、そのすき間からのぞく像の輪郭が交互に視界に割り込んできて、視線はどちらにも落ち着かない。その定まらなさが、まずは心地よい。あとからキャプションを読むと、中央の球体が金氏徹平《Day Tripper》、奥の像が小谷元彦《Arabesque Woman》だとわかる。

入口のステイトメントには、この展示は「瀬戸内国際芸術祭2025の参加作家たちを、美術館コレクションによって紹介する」試みだとある。「島のサイトスペシフィック(場所の特性を生かした取り組み)とはまた違った鑑賞体験ができ、各作家のバリエーションを楽しんでいただけることでしょう」とも記されている。
本展では、高松市美術館のコレクションのうち瀬戸内国際芸術祭(以下、芸術祭)の参加作家の作品が並んでいる。それは、島々の屋外で地形や集落と切り結ぶように立ち上がった作品を、美術館の白い展示室へといったん連れ戻すことでもある。本来の場所から切り離されたとき、瀬戸内の自然と結びついた外側の記憶と、展示室の内側にある作品とのあいだには、わずかなズレが生じる。展示室全体が、そのズレを静かな問いとして差し出しているように思えた
2:流れる空白としての球体
中央に置かれた《Day Tripper》は、近寄れば近寄るほど、何を見ているのかがわからなくなる。チューブからこぼれ落ちた絵具を撮影した写真の切り抜きが、玩具のスティックに巻きつきながら球体を形づくり、そのまわりを半透明のプラスチックの膜がぐるりと包んでいる。見えているのは絵具そのものではなく、その写真の断片だけだ。


球体のなかは空洞で、どこからでも外の景色が抜けていくように見える。作者の金氏は、さまざまなものが勝手に出入りして「一つの中身を持った塊になって動いている状態」にリアリティを感じると語っている(*1)。一見空洞に見えるが、そこには固定された中身の代わりに、絶えず出入りする移動そのものが詰まっているのだろう。この球体は、何かを保存する容器ではなく、循環という現象の模型なのだ。
瀬戸内海を行き交うフェリーに乗るとき、私たちは海の内側を見ることはできない。たえず形を変える表面だけが波として現れ、その下の流れは想像するしかない。《Day Tripper》の球体では、その海面の役割を、写真になった絵具の破片が引き受けている。表面を覆う無数の色の断片のあいだから、からっぽに見える空洞をどこまで覗き込んでも、その先に中身があるようには感じられない。
3:過剰な表面としての身体
壁際に立つ《Arabesque Woman》は、全身が唐草模様に覆われた女性像である。筋肉や骨格は写実的に作りこまれているのに、その上にびっしりと植えつけられた唐草のパターンが、身体の凹凸をかき消してしまう。刺青だけが浮かび上がって、質量を抜かれた人型の殻だけがそこに残っているように見える。そして筋肉や関節がきちんと作られているからこそ、視線はその皮膚からほとんど離れない。


古典的な彫刻が、肉体を支える骨や筋肉からなる正確な内側の構造を、なめらかな皮膚で覆い、外部からでも把握できるようにしたとすれば、この像では皮膚がそれとは別の効果を生み出している。遠くからでも肉体の構造や重さは感じ取れるのに、近づくと表面はタトゥーとも蒔絵ともつかない図像の層に覆い尽くされていて、肉体の範囲を超えていってしまう錯覚に襲われる。つまりこの像は、身体の中身の再現というより、身体の皮膚に映ったイメージの場として立ち上がってくる。それでも人型をしているからこそ、人間の身体の気配をまとって見えるのだ。
この違和感は、小谷自身が長らくテーマにしてきた「スペクター」、すなわち幽体によるものかもしれない。スペクターとは、肉体と意識は離れているが、同じ身体という場を共有している状態を指す言葉である。本作の場合は、ひとつの身体を共有しながらも、内側の肉体と表面の皮膚上のイメージが一致しない。この奇妙なずれの感覚が、小谷作品に独自の存在感を生み出すことになる。それがスペクター、幽体と呼ばれる何かではないか。
4:折りたたまれた島々としての展示室
改めて確認すれば、球体は中央に、像は壁際に置かれている。四方の壁には、瀬戸内国際芸術祭に参加した作家たちの関連作がぐるりと連なり、そのあいだを縫うように小さな作品が続いている。

キャプションに島名が書かれているわけではないが、瀬戸芸を見てきた人であれば、各作品の背景に瀬戸内海の島々の風景を重ねても不思議ではないだろう。例えば、川島猛と松井えり菜の絵からは男木島を、また鴻池朋子の《揺れる島》は東日本大震災を受けて描かれたものだが、ここでは大島を、そして橋本雅也の白い骨の彫刻からは、高見島の斜面とその向こうの海が思い浮かぶ。小谷は、2022年に鬼ヶ島伝説の残る女木島に大きな棍棒をもった立像を制作し、今年アップデート版が公開されている。
このとき四つの壁からなる展示室は、瀬戸芸を見てきたひとの記憶のなかにある島々の風景を思い起こさせ、互いに出会わせる場所となる。芸術祭でのサイトスペシフィックな展示と美術館での展示が合わさったような体験に近いともいえる。
ならば、中央に浮かぶ球体は何か。私には島々をつなぐ海であり、その表面にうごめくのはひとや物を運ぶフェリーの残像のように思えてくる。さまざまなものが出入りして、中身が一時的に生まれる状態が、金氏にとっての本作のもつリアリティだった。この感覚は展示空間にまで拡張して考えることができるだろう。球体は海とフェリー移動という文字通りのイメージを超えて、島と島、作品と作品の間を絶えず行き来する視線の運動そのものの模型として働きはじめる。だから球体は実体があるようでない。小谷とは別のスペクターである。
私は中身の見えない球体と過剰に装飾された身体の間を、空洞と皮膚の間を、さらには球体を中心にして、壁の作品の間に目を行き来させてきた。ときにその運動は、ここにはない島々の記憶を二重写しにすることもあった。瀬戸芸会場とも近い高松市美術館で本展が開催されたひとつの意義もここにあるだろう。美術館の内と外の区別を超えて、その間を行き来する視線とそれに伴う過去の記憶の重ね合わせが、いくつも起きていたのだ。その中心では、金氏の球体が運動の模型であり、スペクターとして機能していた。ただし絵具そのものではなく絵具の写真が使われているように、それはあくまでも仮想的に、見立てとして。
(*1)高松市美術館編『いま知りたい、私たちの「現代アート」高松市美術館コレクション選集』高松市美術館、2016年、p.141。
会場・会期
高松市美術館
2025年10月1日から12月27日まで
・執筆者プロフィール
sahisa
香川県在住のアートファン。元プログラマー、現在は医療に従事。Xのアカウントはこちら。




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