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第11回:レビューの使い方会議(南島興)

これぽーとを主宰している南島です。今週は、レビューの使い方会議の第11回目です。以下、説明に続いて、本文になります。


 突然ですが、前から少し疑問だったことがあります。毎月のように展覧会が開かれて、それに対するレビューがさまざまなメディアで公開されている。けれど、展覧会が終わったあとのレビューや、一度読まれた後のレビューはどこへと行ってしまうのか。書籍であれば、何度も読み直されることや本棚にしまっておいて、その時々で読み返されるということがありますが、展覧会のレビューで、それもネット公開のものは、なかなかそうはなりにくいと思います。どうしても一回の使い切り感が否めません。


 これはもったいないことだなと前から思っていました。本来、レビューは展覧会が終わったあとやその展覧会の存在すらも忘れられたあとにこそ、それがどんな展覧会であったのかを記録した資料として重要な意味を帯びてくるはずだからです。  


 こういった問題意識からこれぽーとでは断続的に、南島がこれまで公開されたレビューを僕なりに紹介していくことにしました。題して「レビューの使い方会議」。試しにではありますが、この場でレビューの「使い方」をいろいろ見つけ出していきます。レビューを書いていただいたみなさんのためにも、読んでいただける方々のためにも、主宰者である自分には、それを発見していく責務があると思っています。


 第11回目となる今回は、2020年11月に公開された谷村美術館と高知県立美術館のレビュー記事をご紹介いたします。

 

これぽーとは常設展・コレクション展をレビューする活動として記事公開を続けてきました。これまで100本以上のレビューを読んできて思ったことは、コレクション作品について論じることと展覧会について論じることは異なるということです。常設展であればまだ両者の区別はあいまいですが、企画展や現代美術の展覧会では、個々の作品と展覧会という単位での見方には大きなずれが生じてくることがあります。それは常設展に比べて、後者の二者の展覧会が展示空間のなかでの作品の見せ方に工夫が施されているからです。展覧会という空間をどう体験するのか、という環境づくりが美術館のみならず、インディペンデントな場での展覧会でも前景化している印象があるでしょう。しかし、美術教育を振り返れば明らかなことですが、私たちは空間の論じ方を学んだことがありません。小中高の美術の授業では、常に作品はその作品単体として見せられて、その特徴について教えられます。たしかに近代以降の特に絵画においてはそれひとつがどこに運ばれて、どんな風に展示されても問題がないような場所に依存しない=モビリティが作品のもつ自律性の証明として評価されてきたとも思います。こうした作品の脱場所性を象徴する展示空間として、私たちが美術館にいってよく目にするホワイトキューブの空間は作られています。実際にはホワイトキューブにはホワイトキューブ独特の場所性があること、美術批評の言葉で言えば、ノンサイトにもサイト性があることも明らかなのですが、理念上はホワイトキューブの場合は作品と空間の関係性について何かを読み解く必要はありません。そうした場所への余分な配慮を徹底的に配することがホワイトキューブの理念だと言ってもいいと思います。したがって、展示空間がホワイトキューブでない場合には、なおのこと作品と空間との関係性、それはときに鑑賞者を巧み騙す詐術にもなりえる技術が、展示に際しては施されているはずなのです。今回プレイバックする二つの記事、「谷村美術館:みえないようにするしかけ(吉野俊太郎)」と「高知県立美術館:美術館コレクションと常設展示室(溝渕由希)」は、常設展としては少し変わった建物や施工がなされた空間での作品の見え方に着目してレビューしています。一方は作品から抱く感情のコントロールを、他方は作者との人生や制作環境との重ね合わせを、空間との関係から読み解いています。ぜひお読みください。

 

・執筆者プロフィール

南島興

1994年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了(西洋美術史)。これぽーと主宰。美術手帖、アートコレクターズ、文春オンラインなどに寄稿。旅する批評誌「LOCUST」編集部。https://twitter.com/muik99